二代目円馬は、大阪では「空堀の師匠」として親しまれる存在であった。空堀とは、二代目円馬が住んでいた大阪市内の土地の名前である。三遊亭円朝門下にて円雀から円馬を襲名し、一門の番頭役として活躍していたが、明治24年に師・円朝が寄席改革に失敗したのをきっかけとして一線を退いたときに、自らも師の去就に殉じて東京の寄席から退いた。円朝は、義理立て無用であると円馬を説得したが、円馬は弟である橘ノ円(たちばなのまどか)とともに大阪にくだり、以降当地で活躍する事となる。このエピソードを見ても分かるとおり、師・円朝と円馬の結びつき、信頼関係はたいへん強く、円朝はたびたび円馬や円に手紙を送り続けた。
大阪でも二代目円馬は正統派の東京落語を演じ、高い評価を得た。桂米朝の師である桂米団治は若い頃、二代目円馬の演じる「しの字嫌い」という噺を聴いて、今まで嫌いだったこの噺をあざとくなく、巧妙に演じる円馬に感激したという。米団治は二代目を「大阪人に東京落語の真髄を味わわせてくれた偉大な功労者」と高く評価している。なにしろ、明治期の東京においてポスト円朝とでも言うべきポジションにいた人なのだから、その評価はむしろ当然のことだろう。
しかし最初は、大阪で純東京風の円馬噺がすんなり受け入れられる、という訳にはやはりいかなかった。そこで円馬が大阪で属していた桂派というグループでは、落語矯風会という会を催し、円馬の噺を大阪でもみっちり聴かせる機会を持たせるようにしたという。桂派の重鎮だった二代目桂文枝は「(円馬演じる)これだけの良いネタが、大阪で受けないのが判らない、是非受けさせたい」と言って、名人・円馬をもりたてて行った。こうして異郷の地である大阪においても、円馬は名人揃いの桂派にあって、異彩を放つ重要な存在となった。
大阪定住後の二代目円馬は、師・円朝の法事など特別な場合を除いて上京する事が無かったが、桂文楽によると彼がまだ小莚と名乗っていた前座時代に、人形町の末広に15日間円馬が出演した事があるという。このときの助演は、噺によっては、円朝を超える名人と呼ばれた四代目橘家円喬、そして立花家橘之助であった。自らの芸に絶対の自信を持つ円喬は「俺と円馬を聞き比べてみろ」といわんばかりの迫力で演じ、とりわけ「鰍沢」などの出来栄えは、まさに空前絶後の凄さであったという。またこのとき、後に三代目円馬を襲名する立花家左近が、他の寄席への出演を休んで末広に来ては、楽屋から二代目円馬の噺に一心に耳を傾けていた。後の両者の関係を思えば面白い逸話である。
大正7年、円馬の名を譲ることの出来る後継者を見つけた安堵からであろうか、円翁と改称した二代目は同年暮れに死去。また橘ノ円は、橘之助と後に結婚するが、昭和10年に京都を襲った水害のため夫婦揃って水死した。