「奇跡の話芸」三代目三遊亭円馬

 

 

 

三代目円馬の生涯

1.少年落語家〜東京へ

円馬は、本名を橋本卯三郎と言い、明治15年(1882)11月3日大阪市北区に生まれた。父は元々湯葉問屋を営んでいたが、落語好きが高じて自らもプロの落語家となり、月亭都勇と名乗るようになった。卯三郎も明治21年、小勇の名前で京都京極の笑福亭にて初高座を踏み、少年落語家として芸人人生のスタートを切っている。そこから笑福亭木鶴の門下に転じ、都木松を名乗っていたが、立花家橘之助という東京の女流浮世節師に認められ、12歳で上京して芸を磨く事になる。この立花家橘之助との出会いが、円馬の人生を大きく変えた。東京での初高座は、両国の立花家という寄席、芸名は橘之助から一字もらって橘松となっている。

明治33年というから、まだ18歳から19歳の頃だが、北海道の小樽に滞在中、地元の廻送店へ婿養子に入った。この辺の事情は不明だが、結果的には放蕩がたたって一年で離縁となり、明治35(1902)年に帰京。その後地方巡業を行っていたが明治37年召集され、日露戦争に従軍した。各地を転戦後、翌38年暮れにようやく復員。ここから、円馬の本格的なキャリアがスタートする。

2.東京落語界のホープ

日露戦争から復員した若き日の円馬は、その後も名古屋へ行くなどしばらく苦闘の日々が続いた。だが、明治41年頃には帰京、立花家左近の名で若手落語家として頭角をあらわしていく。左近は、地味ながら堅実な話し振りで評価が高かった、三遊亭円左の薫陶を受けて落語を研究するようになる。そしてこの頃、左近とある前座落語家が運命的な出会いを果たした。大阪出身で、東京に出て活躍していた初代桂小南の弟子、小莚であった。小莚自身は東京の人だが、師匠の小南が上方落語であった為、左近に東京落語を習いに行ったのである。

左近の小莚に対する指導は、殊のほか厳しかった。最初の一年間は「道灌」という話しか教えてもらえなかった為、ある時は一日に3回も「道灌」を、同じ寄席で同じ客に対して演じた事もあると言う。また左近が教えた通り出来ないと、定規で手を叩かれて腫れあがったり、また噺の途中で「エー」と言う癖のある小莚に対し、左近は稽古中「エー」と言うごとにおはじきを投げつけた。そして噺が済んだ後、小莚が投げつけられたおはじきの数を数えたところ、実に70にも達していた。この「エー」が一つもなくなるまで、左近のおはじき攻撃は続いた。

しかし左近のスパルタ指導を得て、小莚はめきめき上達していく。また明治42年、左近自身も遂に真打に昇進、七代目朝寝坊むらくを襲名した。むらくは、師匠の橘之助の夫(六代目)が名乗っていた名跡である。むらくは、古典のレパートリーが豊富な上に新作落語も演じ、さらに踊りや生け花の腕もあると言う、いわば万能の芸人に成長を遂げていた。このむらくを橘之助と、三遊派の頭取である四代目橘家円蔵が守り立てて売り出していった。第一次落語研究会のサブメンバーにも選ばれ、むらくの落語家人生は、まさに順風満帆であった。

3.突然の転落、旅興行から故郷へ

しかし、この3名を巡って、後に不穏な空気が流れる事になる。むらくと円蔵が不仲に陥ったのである。二人の関係は、ある日決定的な破局を迎えた。大正2年1月、新富座で行われた落語家講釈師の観劇会の入り口において、むらくの挨拶を無視した円蔵に対し、激怒したむらくが殴りかかったのである。若手の落語家が大御所である大先輩、しかも自分を売り出してくれた恩義のある人を、あろうことか公衆の面前で殴りつけたのだ。現在でもこれは大変な不祥事となるが、師弟関係・上下関係のたいへん厳しかった当時では、新聞紙上をにぎわすような大スキャンダルであった。橘之助は、ただちにむらくを破門し、名前を取り上げてしまった。

円蔵とむらくは、仲介を得て和解するが、むらくはこの事件以後、東京を離れてしまった。そして長い旅の末、生まれ故郷である大阪へ、大正5年に舞い戻るのである。むらくの名は既に使えない為、自分の本名から「橋本川柳」と名乗った。橋本川柳は、南地法善寺にあった「浪花三友派」というグループの本拠地、紅梅亭に出演するが、好評を得たため引き続き出演。そして明治以降、大阪に居を構えていた、東京落語界の重鎮である二代目三遊亭円馬の名を継ぎ、三代目円馬を襲名した。大正7年5月のことである。二代目円馬は、以降円翁を名乗った。円馬は、以後も東京には復帰せず大阪落語界に確固たる地位を築き、初代桂春団治、二代目桂三木助といった当時の人気者たちとともに「押しも押されぬ名人」として、大正から戦前にかけて君臨していく事になる。

だがエンタツ・アチャコなど、大阪で新しい大衆芸能として隆盛を極めた漫才に、落語が押されていくのと時を同じくするかのように円馬は病に倒れてしまい、高座から退くようになってしまう。そして長い闘病生活の末、第二次世界大戦終戦間際の昭和20年初頭に亡くなった。

 

 

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