三代目円馬の落語界における功績は、まず上方落語の噺を東京落語に移植し、定着させたことにある。大阪ネタの移植ということでは、夏目漱石が絶賛した三代目柳家小さんが有名だが、円馬も功労者の一人だ。桂米朝は「数は少ないが、実に見事な移し変えを行っている」と評価している。下に挙げる「愛宕山」などもその代表格だが、他にも「景清」「孝行糖」「佐々木政談」「胴取り」「泣き塩」「壷算」「初天神」などが円馬による移植だと言う。
次に、後進の育成が挙げられる。これは「円馬ゆかりの人々」にも詳しく書くが、桂文楽、四代目柳家小さん、三代目三遊亭金馬、また六代目三遊亭円生といった、昭和の名人・人気者たちに厳しい稽古を付け、大きな影響を与えた。彼らは円馬の直弟子という訳では無いのだが、その芸に受けた影響は個人差こそあれ大きい。そう考えてみれば、三代目円馬はその後半生を大阪で過ごしながら、昭和の東京落語に貢献した重要人物の一人と言える。
話芸そのものについては、円馬と深い親交を結んだ作家・正岡容(まさおか・いるる)の「三遊亭円馬研究」という文章に詳しい。円馬は当然の事ながら大阪弁に精通していたが、同時に落語を修行した地である、江戸言葉の使い方もまた見事であった。徳川以来の下町風景がまだ色濃く残り、中途半端な江戸弁では聴衆を納得させる事など出来なかった明治末期である。円喬、三代目小さんなどの名人上手がまだ存在し、しかも三遊亭円朝の噺を実際に聴いた事のある人が多く存在していた時代に人気落語家にまで上り詰めたのだから、むらく当時から既に相当の力量を持っていたのだろう。
ちなみに、円馬と同時代、またそれ以降に東京で活躍した上方出身の落語家は数多い。初代桂小南、桂小文治、または二代目桂小南などであるが、彼らにはやはり言葉のハンディがあり、その為東京の人にでも分かりやすい、所謂ライトな大阪弁を使って大阪落語を演じていた。大阪では爆笑王の名をほしいままにした桂春団治でさえ、持ち前のこってりした芸風と大阪弁独特の言い回し、ギャグのため、上京の際も東京の客にはあまり理解されなかったといわれている。その中でも大阪時代、初代春団治の弟子だった三遊亭百生は戦後、師匠直伝の正統派上方落語を東京で演じて人気を博し、その口演が上方落語の復興にも役立ったという。戦前と戦後では、東京における大阪弁の浸透度が変化していたということになる。
いずれにせよ、大阪生まれの彼らにとって正しい東京言葉を使った東京落語の口演は無理であった。だがむらく時代の円馬は、主に正統派の江戸落語を、正統派の江戸弁を駆使して正確に演じた。これは円馬が他の落語家とは異なり、少年期に東京へ出て厳しい修行を積んだ事の成果であろう。
故郷の大阪に戻ってからも、円馬は上方落語より、東京の噺を主に演じつづけた。吉本興行部では、円馬が出演する寄席には「東京人情噺の名人」というキャッチフレーズを掲げた。その通り、円馬は三遊亭の噺家が得意とする人情噺から、落とし噺まで幅広く演じたが、正岡によると「お富与三郎」や「鹿政談」は特に絶品であり、「鹿政談」の中で奉行が「黙れ!」と一喝するくだりでは、正岡は円馬演じる奉行のあまりの迫力に、一度ならずに二度までも、客席でぶるぶると震えあがった経験を持っているという。
また円馬の「芸の引き出し」を物語るエピソードが幾つか、花月亭九里丸編「寄席楽屋事典」に収録されている。まず【穴が開く】という項目では、ある日円馬が寄席で落語を演じていた際に次の出演者が来ない為、「たらちね」から「子ほめ」という噺につないだが、それでもまだ来ないので「浮世根問」を続けて演じて、噺の継ぎ目、転換を感じさせず、三つの落語で1時間の高座を演じ切ったというエピソードを紹介している。こうやって寄席興行に穴を開けず、しかも観客に満足の行く舞台を演じ切る技量があると言う事が、本物のプロであるという証明になるのであろう。
また同書の【独演会】という項目では、円馬が金沢の一九席という寄席で1ヶ月間、独演会を演じた時の事が書かれている。通常独演会、と言っても前座がいたり助演がいたりして、ひとりで完全に高座を担当する、と言う事はむしろ稀であろう。しかしこの時の円馬は、まず自分がいきなり高座に上がり、40分ほどの落語を演じる。休憩のあと、東京の人情噺をたっぷりと1時間聞かせ、また休憩のあと大阪落語、さらに踊りを踊るという構成で、ひとりの助演も使わず演じ切る「完全独演会」を行ったという。しかも30日間、ただの一度として同じ噺をやらなかった。芸の幅広さ、レパートリーの豊富さを如実に物語るエピソードである。
大阪は、東京の芸人への風当たりが強い街ではあるが、円馬演ずる東京落語は当地においても長く高い評価を受けていた。少年時代に円馬の噺を聴いたことがある六代目笑福亭松鶴は、「東京の落語を大阪の人間にも分かるようにした」と評価している。