作家・芸能研究家として知られ、門下に永井啓夫、大西信行、桂米朝、加藤武、そして小沢昭一など多彩な人材を擁した正岡容は、むらく時代から円馬の芸に心酔し、関東大震災の後大阪で暮らした時には、自ら落語家を志して円馬の門を叩いた。正岡は円馬から「寿現無」を丁寧に教わったと言う。
二人の関係は単なる師匠と弟子というよりも、親子のような親密さであり、正岡は後に、円馬夫人の紹介された女性と結婚した。しかしこの結婚はやがて失敗に終わる。正岡と円馬夫婦との関係は険悪となり、遂に師弟二人は大阪・難波駅近くで大喧嘩をしてしまったという。やがて正岡は桂三木助のアドバイスを受け、大阪を引き払って東京に戻る事になった。まるでむらく時代の円馬と、橘家円蔵の関係を髣髴させるかのようなエピソードである。
しかし正岡の、師の芸への傾倒ぶりは変わることがなく、円馬が病に倒れてからも、桂文楽と共に円馬を励ます為の落語会を東京で開き、大阪の円馬へ送金するなど、愛憎半ばする関係は円馬の死まで続いた。