本名を森田彦太郎という四代目の円馬は、明治32年に東京で生まれた。落語家であった父が大阪に移り住んだ為、彦太郎自身も幼い頃から大阪に住む事となった。明治40年、二代目円馬に弟子入りし、円童を名乗る※。以後とん馬と名乗っていたが、二代目円馬が名跡を橋本川柳に譲ったとき、彦太郎自身も弟子として預けられた。大正12年に小円馬を襲名し真打になっている。2人の師匠に仕えた四代目によると、几帳面な二代目と荒っぽい三代目は、まるで性格が違っていたという。
吉本に所属し、大阪で人気があった小円馬だが、新作落語で人気を博していた二代目桂小春団治(後の花柳芳兵衛)が落語を軽視する吉本に、反旗を翻して脱退するときは「何なら片棒を担ごうか」と持ちかけたという。その小円馬自身も、太平洋戦争中の1943(昭和18)年には吉本を辞めて東京に里帰り、三代目円馬没後の1947(昭和22)年、亡き師の名跡である四代目円馬を襲名した。
円馬の名を継ぐ落語家は、二代目、そして三代目と東京落語を代表する名人でありながら、共に故あって大阪にくだり、そのまま大阪で没した。しかし四代目円馬は、江戸っ子でありながら大阪で落語家になり、長じて東京に戻るという、言わば三代目のほぼ逆コースのような人生を辿ったといえる。
四代目円馬は、大阪仕込みの珍しい噺を舞台にかける貴重な存在であったが、1984年(昭和59)年に死去している。落語芸術協会の重鎮として、後進の指導に心血を注いだ円馬一門からは、大喜利番組のはしりともなったフジテレビ「お笑いタッグマッチ」などにも出演した三遊亭小円馬、また同じく円馬の弟子である遊三のまた弟子で「笑点」でおなじみの人気者、三遊亭小遊三などを輩出。また同じく孫弟子にあたる橘ノ好円が、五代目三遊亭円馬を襲名した。
※桂米朝「上方落語ノート」(青蛙房)のあとがきに、この人の事が書いてあった。四代目円馬の父は橘家左円太といったが、噺の後に演じていた曲芸がよくうけるので、専門の曲芸師に転じ、名を「一賞」と改めたらしい。また円童は一時、桂文三の弟子として「小三」を名乗っていた時期があったとのこと。(2004.1.30)