むらくに去られた小莚だが、その後も各地で精進を続けて人気落語家となり、大正9(1920)年に八代目桂文楽を襲名した。後に「黒門町の師匠」と言われ、寸分のすきも無い完成された話芸を誇った昭和の名人・文楽である。その文楽が名声を得てからも、芸の師匠として生涯追いかけ続けたのが、むらく改三代目円馬であった。文楽は大阪へ仕事で来ると、常に萩之茶屋にあった円馬の家を尋ね、連日の様に猛稽古に励んだ。そうして円馬から新しい噺を伝授されると、今度は文楽独自の「刈り込み」作業に入る。一切の無駄を排除し、洗練された噺として練りこんでいくのだ。
完成度の高い話芸を求める文楽は、なかなか新しい噺をネタおろししなかった。「富久」と言う円馬から習った噺を何度も「落語研究会」にかけると発表しながら、いざ初演の日になると文楽は休んでしまう。当時新聞に落語評を執筆していた安藤鶴夫は、文楽の富久を期待して出かけては肩透かしを食らうので、遂には腹を立てて「文楽の『富久』は、今日も『富休』であった」と揶揄したという。
しかし、そうして完成した文楽の「富久」は素晴らしい出来であった。後に文楽は「富久」と、そして「素人鰻」という噺で2度芸術祭賞を受賞している(「素人鰻」が昭和29年度、「富久」が昭和41年度)が、これらの噺はどちらも円馬直伝の芸であった。文楽は円馬から、昭和10〜12年にかけて「富久」を習いつづけ、それから数年間の研鑚を経て遂に「富久」を初上演し、好評を得た。だが、その後数年を経てからなお、安藤に「今年こそは『富久』をモノにして見せます」と語っていたという。誰もが認める絶品の出来であっても、文楽の中ではまだ完成品ではなかったのである。
この楷書の芸とでも言うべき、噺のディテールや台詞などに徹底的にこだわる精密な芸の組み立てこそ、文楽が円馬から真に教わった芸の取り組み方であろう。
円馬は他にも「愛宕山」と言う、自らが東京に移植した噺などを文楽に教えている。「愛宕山」は以後文楽の十八番となり、晩年になっても口演を続けた。この噺はアクションが大きく体力を使う為、医師からは止められていたのだが、文楽は最後まで「愛宕山」を止めなかったという。また文楽は、円蔵とむらく時代の円馬が不仲になった原因について「深いことはわかりませんが、橘之助師匠との三角関係とのことです」と述べている。