「奇跡の話芸」三代目三遊亭円馬

 

 

 

まとめ

「三遊亭円馬研究」の中で正岡は、円馬が円蔵の没後も大阪を離れず、東京に戻ろうとしなかった理由について、(むらく時代の)東京時代の家庭生活が意に添わぬものだったため、と述べている。確かに、もし円馬が大正後期から昭和にかけて東京に復帰していれば、落語界の重鎮、正統派の第一人者として活躍したたであろうし、あるいは落語の歴史そのものが変わっていたかもしれない。

だが現実にはそうならなかった。円馬は、故郷の大阪で生きる道を選んだのである。当時、大阪の演芸界では吉本が勢力を拡大し、漫才が隆盛を極めていく一方で、上方落語は大衆の支持を得られず衰退していった。そんな状況の中でも、円馬は大阪の重鎮として君臨を続けた。

円馬が病に倒れてのちも、文楽の円馬崇拝は変わることが無かった。円馬としても、文楽には自分の持つ噺を全て伝授するつもりであったが、それも半ばにして叶わぬことになってしまった。だが大阪に文楽がやって来ると、円馬は回らぬ舌で、昔のようになんとか文楽に稽古をつけようとする。聞いている文楽は辛くなり、やがて円馬も思うに任せぬ自分の口がじれったくなり、師弟揃って悔し涙をこぼす、という事があったという。

舌先三寸で観衆を魅了する噺の名人にとって、本当に辛い晩年であったことだろう。しかしその芸は幸いにして、文楽・金馬らに伝えられた。落語の優れた財産は残されたのである。

その文楽も1971年、「大仏餅」という落語を口演中、ある登場人物の名前が出てこなくなったことをきっかけに噺を途中で止め、高座を降りることになってしまった。そしてそれ以来、文楽は生前二度と舞台に上ることは無く、同年この世を去った。

 

 

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