二代目円馬をはじめ、本格派の落語をじっくり聴かせる目的で生まれた桂派の「矯風会」だが、発足したのは「落語『通』入門」(桂文我)によると、明治36年となる。東京の「第一次落語研究会」よりも早い。
出演メンバーは「寄席楽屋事典」によると、当初は5人程度の出演で、一人の持ち時間が1時間。
前座→枝雀→余興:円三郎(後に橘ノ円)、小南らの踊り→小文枝→円馬→南光(後に仁左衛門)
だったが、後には
前座→雀三郎(後に小文枝)→三木助→枝雀、万光か翁家さん馬→余興→南光、小文枝か文三→円馬→文枝(文左衛門)
とメンバーもさらに充実した。南光、小文枝、文三の三人は兄弟分で人気も高かったので、この中から誰かが必ず出演して盛り上げ、その後にモタレで円馬がみっちりと長講。そしてトリは大師匠、というラインアップであった。
一方の三友派は、賑やかな高座ぶりで人気があったが、出演者が多いので一人当たりの出番が短く、名人でもじっくり噺を聞かせることが出来ない。それに矯風会に負けずに長講会をやってみい、とお客さんにけしかけられたこともあり、同様の落語会が発足した。これが日曜会である。最初は桂文吾のために京都で開催したのが好評を得たので、レギュラー開催となった。
主な出演メンバーは曽呂利新左衛門、福松ら。また、当時は東京から必ず大真打が来ていたので、ゲストとして出演していた。中でも、三代目柳家小さんに多くの上方のネタを伝授した、文吾の落語は素晴らしいものだったようである。