2004年4月12日村上版「白い巨塔」高い視聴率を誇ったリメイク版「白い巨塔」、先月日本で様々な話題を残して終了した。最後の2回がかなりの急展開で、ちょっと端折りすぎかなというきらいはあるが、まずまず名作ドラマの復刻としては合格点のレベルに達していたと思う。昭和版のほうも日本で再放送が始まったみたいだし、結構な事だと思う。これで田宮二郎のことに興味を持ってくれる若い人が増えてくれれば嬉しい。 さてこの作品は最初、1966年に大映映画として制作されたのだが、私はあいにくこちらの方は見ていない。監督は山本薩夫。また1967年にもNETでドラマ化されていた。財前役を佐藤慶が演じたという。うーん、かなり迫力のある財前だったんだろうな。 さて映画版のキャストなのだが、この作品でも田宮が財前を演じている。そして里見役は、田村高広だ。見ていないから、あくまで想像に過ぎないだけれど、なかなかよい配役なのではないだろうか。なんとなくだが、平成版の里見は少し正義漢過ぎたかもしれないと、最近思うようになってきた。その辺はうまく説明することが難しいのだが、もう少し学級肌の人物、と言う気がするのだ。 それに里見を演じた江口洋介はかなり背が高い。だから昔からの「巨塔」ファン、つまり山本学の演じる里見のイメージが強い人には、やはり最後まで違和感が残っただろう。もうひとつ言うと、田村だから里見も大阪弁で話しているという。これは結構大きなポイントだ。「浪速大学」だから全員が関西人、という訳でもないのだろうが、やはり平成版は、あまりにも標準語率が高すぎたように感じる。皆が皆標準語だと、フランス人なのに英語を話しているアメリカ映画、みたいな違和感を感じるのも事実だ。 西田敏行は「探偵ナイトスクープ」仕込み?の大阪弁に果敢にチャレンジしていたが、他の人は…東京にも関西出身の俳優はたくさんいるので、そういう人を積極的に起用しても良かったとおもう。 そして、なんとこの作品は15年ほど前にも、テレビドラマ化されていたのだという。これはちょっと盲点であった。財前は村上弘明。いったいどんな感じの作品なのだろうか、一度観てみたいと思う。 (文中敬称略)
2004年4月11日マルセイユもうちょっと、フランスサッカーの話を続けてみることにしよう。UEFAカップでは、フランスのオリンピック・マルセイユがイタリアのインテルを1-0と破り優位に立った。チャンピオンズ・リーグのASモナコといい、今年はフランスのクラブが頂点に立つ可能性もある。ただマルセイユの決勝点を挙げたディディエ・ドログバが次戦では出場停止のため、今後も苦しい戦いが待ち受けている事には違いがないだろう。 マルセイユもモナコと同様、地中海に面したプロヴァンスの美しい港町である。なにしろ紀元前から続くフランス最古の街なのだから、歴史の重みが違う。そして豊富な魚介類を生かした名物のブイヤベースは、一度は現地で味わってみたい料理だろう。またマルセイユは、フランス国内においてはもっとも熱狂的なサッカーどころとして知られる街である。この街にあるオリンピック・マルセイユは、フランスを代表するサッカークラブとしての地位を誇ってきた。 このチームには、かつて幾多の名選手が在籍していた。そんなに昔の話ではない。フランス代表のエースストライカーとしても活躍し、ACミランにも在籍していたジャン・ピエール・パパン、ジャン・ティガナ、エンツォ・フランチェスコリ、バジール・ボリ、エリック・カントナ、クリス・ワドル、そしてドラガン・ストイコビッチ…中でもイングランドの選手としては、珍しく優雅なスキルを誇ったワドルは、私の好きな選手であった。 マルセイユは、1993年のヨーロッパ・チャンピオンズカップの決勝に進出し、ミランと対戦。後にJリーグの浦和レッズでもプレーする事になるボリのヘディングによるゴールで先制点を挙げ、そのまま逃げ切った。あの強豪ミランを倒して欧州サッカークラブの頂点に立ったのだから、当時のマルセイユがいかに強いクラブであったかお分かりいただけるだろう。だがその直後にフランスリーグでの八百長事件が発覚し、マルセイユはフランス2部リーグへ降格されるという異常事態に陥ったのである。もちろん年末のトヨタカップには来日せず、ミランが代わりに東京へやって来た。私は、その試合を観に国立競技場へ行った。ミランは南米代表である、アルゼンチンのペレス・サルスフェルドに完敗を喫した。ミランのメンバーには、パパンが名を連ねていた。 それ以後マルセイユは立ち直り、現在ではもちろん1部リーグに復帰した。しかし、当時のような華やかなメンバーを擁し、欧州の頂点を狙うところにまではまだ至ってないのが現状だ。昨年の秋、チャンピオンズリーグのグループリーグでマルセイユは、世界最強軍団、レアル・マドリードと対戦したが、この時ジネディーヌ・ジダンは出場にためらいを見せたという。ジダンはマルセイユ育ちであり、今でもこの地元クラブを限りなく愛しているというのだ。そしてマルセイユでは、ジダンは「相手」サポーターから惜しみない拍手を受けたという。試合はレアルが勝ったが、ジダンの心中はいかばかりなものであっただろう。 そして、ジダン率いるレアルと、かつてほんの一瞬だけ欧州の頂点を極めたマルセイユが、チャンピオンズリーグの決勝で戦う日は、果たしてやって来るのであろうか。 <追記>と、すっかり思いこんでいたのだが、ミランの93年の相手はブラジルのサンパウロであった。完全な記憶違いであった。翌94年のカードがミランvsベレスで、この試合にはパパンは出ていないようだ。この頃までは毎年トヨタカップに行っており、もちろんサンパウロ戦も観に行っていたのだが… <さらに追記>モナコは「コート・ダジュール」ですね。どうもフランスについては素人過ぎる… (文中敬称略) 2004年4月10日不思議なモナコチャンピオンズ・リーグでレアル・マドリッドを破ってベスト4にコマを進めたASモナコは、名前のとおりモナコ公国のサッカーチームである。ところがこのチーム、モナコと言いながらフランスリーグに所属している。そして現在リーグの首位を走っているのだ。 考えてみれば、筆者は今までこのモナコと言う国に対する知識が無さ過ぎた。実際、モナコには行った事が無い。モンテカルロに世界有数のカジノがあり、地中海に面した美しい国、F1グランプリが開催される、華やかな上流階級の社交場…といった、ごくありきたりなイメージしか持ち合わせていないのである。 そこでちょっとばかりモナコについて調べてみた。外務省のサイトによると、国土の面積はなんと、バチカンに次ぐ世界第2位の小国である。人口もたった3万人しかいない。うーん、そんなに少ないのか。しかしモナコの本拠地、ルイ2世スタジアムは2万人近いキャパシティを誇っている。ヨーロッパの強豪クラブとしては小さなスタジアムだが、人口を考えれば…また人口の話だ…そんなキャパシティでも大きすぎることが分かる。何しろ、モナコ国民の6割以上が収容できてしまうスタジアムなのだ。前から「なんでモナコ国内でリーグ戦を編成しないのだろう」と不思議に思っていたが、これでその理由が分かった。 モナコの名物が、カジノであることは今も変わらない。007シリーズの番外編とでも言うべき「カジノ・ロワイヤル」はモナコが舞台として描かれているが、カジノだけではなく小さな国土に毎年多くの人々が、今も世界中からやって来るというリゾート地としての「観光大国」であるらしい。参考:読売新聞の記事 きっと素晴らしい街、いや国なのであろう。だがコート・ダジュールというのは私自身、一度も行った事が無いので想像の世界でしかない。そしてさらに面白い事実がAll About Japanに書いてあった。王位継承者がいないと、フランスに併合されてしまうのだ。なんと恐ろしい話ではないか。そういえば、モナコ国王と結婚したのは、あの往年の名女優、グレース・ケリーであった。IMDB ケリーはカンヌ映画祭でレーニエ大公と知り合い、結婚。そしてそのまま、女優を引退してしまう。(IMDBにも、王にとって継承者が必要であった話が書いてある。)ハリウッドの女王から、本物の女王になったケリーは王子をもうけ、1982年に自動車事故で死を遂げるのである。 私にとっては不思議な存在だったモナコだが、いろいろ調べるうちにどんどん興味が出てきて、なんだかモナコに行って見たくなって来た。今のところまったく予定は無いのだが… (文中敬称略) 2004年4月9日桜の季節私が日本を去るとき、友人に子供が生まれた。ちょうどこの季節である。そしてその子は今年、小学校に入学するのだという。私にとってこれまで過ぎた時間はあっという間であったが、その子にとってはどうだったろうか。子供の頃、1年はとてつもなく長かった気がする。 入学式と言えば、思い出すのは桜。だから私は、日本人であると定義づけられる。子供の頃、小学校の校門をくぐった時、校庭には桜が満開であった。また大学に入学した時、良い天気だったので、ぶらぶら歩いて日本武道館の方へ向かった。千鳥が淵の桜も、たいへん綺麗であった記憶がある。いや、あれは入学式ではなく、サークルの勧誘に女子大へ行った大学2年の春だったかも知れない… それはともかく、桜前線なんて言葉が一般的なのは、ひょっとしたら日本だけではないか? サクラ満開情報 対照的にこの時期、米国東部はまだ寒い。昨日行われたヤンキースタジアムでの開幕戦も、昨年ほどではなかったが肌寒い中行われた。デーゲームでも寒いのだから、この時期ナイトゲームなんて寒くないはずがない。それでもアメリカ人は、冷たいビールをがぶがぶ飲む。よっぽど胃腸が丈夫に出来ているのであろう。私もビールは好きだが、さすがに寒空の下飲むのは気が進まない。 ニューヨークやワシントンDCにも桜はある。特にDCの桜は有名だ。しかし、開花の季節はもっと遅かったと思う。思う…はっきりと言える自信がない。これはつまり、ニューヨークに住んでいる以上、私は桜の開花により春の到来を感じている訳では無いということを意味するのだ。
(文中敬称略) 民俗学、生物学、そして博物学の分野などで、多彩な業績を残した思想家・南方熊楠。彼の人生は波乱に満ち、そして激しいものであった。そんな熊楠の、人生のハイライトとも言えるのがロンドン留学時代であったと言えるだろう。 熊楠は東大を中退し、最初はアメリカに向かう。ミシガンを経てフロリダ、そしてキューバにまで足を伸ばし探査活動を行った熊楠だったが、19世紀末当時のアメリカはまだ若く、熊楠の持つ知への巨大な願望を満足させるだけの文化は、いまだ持ち合わせていなかったという。そこで熊楠は、大英帝国へと向かう。世界で最も富める国だった英国は、情報の宝庫でもあったのだ。 ロンドンに到着した熊楠は、膨大な情報の集積地点である大英博物館に足繁く通い、そこに世界中から集められた貴重な書物をむさぼるように読んだ。語学の天才でもあった熊楠は、あっという間に未知の言語をマスターする事が出来た。そして博物館の仕事を手伝うかたわら、これら世界中に一冊しかないような貴重な本を、片っ端から読破していったのである。 ただ読むだけではない。彼はノートに、古今東西の本の中にある情報を、次々と書写した。この抜書きという勉強方法は、熊楠が幼い頃から用いていたものだという。熊楠はロンドン滞在中、「ロンドン抜書」と呼ばれる53冊のノートを作った。ただのノートではない。一冊が250ページもある大きなノートに、英語やフランス語、ドイツ語など様々な言語を駆使して書き写していったのだ。今の様にコピー機やテレビ、インターネットなどなく、知的情報を共有する事が難しかった時代に作られた「ロンドン抜書」は、まさに宝物のような輝きを放っていたことであろう。このロンドン時代の猛勉強が、熊楠の知的活動の大きな財産となっていくのである。そして英国の学術雑誌に論文や意見を次々と発表し、日本にミナカタあり、とまで言われる存在になっていく。西洋のみならず東洋の文化・思想にも精通した熊楠は、当時の欧州においても異彩を放つ存在であった。 しかし熊楠は、幸運に恵まれていたわけではなかった。熊楠の頭脳と学識を高く評価する人々は、彼を英国に残すためケンブリッジ大学に日本に関する講座を開設し、熊楠にそこで教鞭をとらせるよう画策した。しかし英国と南アによるボーア戦争が勃発し、このプランも頓挫してしまった。やむなく熊楠は、日本に帰国することになるのである。参考:南方熊楠記念館
/田辺市ホームページ
(文中敬称略)
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