過去のコラム

2004年3月23日

リンク集  

一時期、ホームページのあり方について思うところを書いてみたら以外に反響があって驚いた。別に掲示板のあり方を批判するのが目的では無かったのだが、ウェブサイトの内容を充実させるのはやはり大切な事である。

自分自身、なぜホームページを更新できないのか考えてみたのだが、それは結局「めんどくさい」これに尽きる。HP作成ツールを使ったところで、サイトのデザインを考えて、内容をチェックして、それをリンクさせてアップして…なんて考えると、どんどんウェブ制作から遠ざかっていく。アメリカでブログが早くから利用されるようになった一つの理由としては、更新が簡単と言うのが大きいと思う。自分の周囲にもブログ愛好者は多いが、几帳面な人間は割と少ない。ネットコミュニティが形成しやすいという利点を抜きにしても、単なるパーソナルなサイト作りの為ならブログで充分なのである。

また「個性的な内容のサイトにしなけりゃ」なんて思った瞬間、サイトは作成出来なくなってしまう。逆に言えば、個性的であっても、いずれ更新が負担になるとしたら、実は自分にとってあまり興味の無い分野だった、というのはありえる話だ。そこになかなか気付かないのである。

他人の目から見て面白いサイトを作る、というのは大事なようで、実はプレッシャーの一大要因である。そして恐らくは無駄なことである。個人サイトで、制作者自身が楽しめないサイトは長続きしないと思う。もっと言うと「自分自身の役に立つサイト」でないと、サイトを運営しつづけるメリットも無い。ここでいう「役に立つ」というのは実用的、という意味もあるが、人によっては気分転換になる、という意味もあるだろう。週末の趣味としてサイトを作っている人がいるが、それはある意味ベストな個人サイトとの関わり方かもしれない。

1.息抜きにもなる、自分の作りたいサイトを作って
2.他の人に喜ばれるので
3.自分も嬉しいから
4.翌週の更新にも力が入る

こうなれば最高である。

じゃあ良いサイトって一体何だろう。何が備わっていれば優れたサイトと言えるのであろうか。いろいろ意見はあるだろうが、私自身がまず一番にチェックするのはリンク集である。良いリンク集さえあれば、そのサイト作りは既に80%成功している、と極論してしまいたいくらいだ。勿論、たくさんリンクしているから良いという訳ではない。過不足無く、興味深いサイトとリンクしているウェブサイトを見ると、おぬし出来るな、と思わず呟きたくなる。本でも巻末の参考図書・文献一覧が充実していると、そこからさらに類書を探すことが出来て嬉しいものだ。それにちょっと似ている。またリンク先サイトの紹介文にもその人のセンスが出るから、これまた読むのが面白い。管理者にとっても、使い勝手の良いリンク集を作っておけば実用的である。

でも実名を出すのは避けるが、あまり人気サイトになると相互リンクの申し出が多くなり、結果として何だこれは、というくだらないサイトとリンクさせられてしまう場合もあるので、一概には言えないのだが…

 

(文中敬称略)


2004年3月22日

備忘録 [過去のコラム]

このコラムはちょっとした昔話、ごく個人的な思い出話を書くことが多くて辟易されている方が多いかもしれないが、どうかその辺はお許しいただきたいと思う。個人的には、半分は備忘録のつもりで書いている部分もあるので、どうしても現在のことより過去のことに触れることが多くなってしまう。

この「備忘録」という言葉だが、フィリップ・トルシエの元で日本代表のコーチを務めていた山本昌邦現五輪代表監督が「備忘録」(講談社刊)という名前の本を出版したことで、思い出してまた使うようになった。辞書で調べてみると「備忘録:忘れたときのための用意に、要点を書きとめておくノート」とある。

「山本日記」ではなく「Wカップ戦記」でもない「備忘録」というタイトルの付け方が絶妙と感じた。この本は出版されて間もなく、ニューヨークを訪れた友人が持ってきてくれたのだが、面白くてすぐに読んでしまった。

私は日記をつける習慣が無いので、過去にあったことを思い出せずに困る事が多い。だからどんな形でも、自分がやったこと、考えた事を記録しておくことは、自分のためにも重要な事だという事を実感する。このサイトはパーソナルな利用に徹する事をまず第一義としたので、すみませんが適当にお付き合いいただきたいと思う。

しかし、「備忘録」と書こうとして、初めはこの字がなかなかでないので困った。どうしても「微視録」「美白く」などと出てしまうのだ。私は「備忘録」を「びしろく」と、長年読んでいたのである。変換できないのを見て、初めて自分の読みが間違っていたことに気づかされた。


2004年3月21日

次の次  

昨秋、オーストラリアにて行われた第5回ワールドカップに出場しながら、予選リーグ4戦全敗に終わったラグビー日本代表。その次期監督に、神戸製鋼の萩本光威氏が就任する事になった。

ここで注目されるのは、その任期である。なんと1年契約なのだ。それなのに、萩本はフルタイムの代表監督に就任する。これは一体、何を意味するのであろうか。

日本ラグビー協会は、向井昭吾前監督の後任として、経験豊富な外国人コーチを捜していた。その中には、豪州代表ワラビーズ監督のエディ・ジョーンズ氏も含まれていた。ジョーンズは日本との縁が深く、国際舞台での実績、指導力も文句のつけようが無い。もしジャパンを率いる史上初の外国人となるなら、最高の人材であると言えるだろう。だが交渉はまとまらず(まだ豪州代表での任期が残っている)、結局は向井同様、国内で実績を持つ萩本の登板となったのである。

では、なぜ任期1年なのか。シドニー在住の「ぴっかぶー」さんのHPや、本サイトの掲示板でもおなじみのタカハシさんが発行されているメルマガ「ワールド ラグビー パートナーシップ」で教えてもらった、面白いニュースをお伝えしよう。豪州での報道によると、ジョーンズ氏と日本協会の間では、来年の2005年から日本代表の監督に就任する交渉が既に行われているというのだ。

もしこの報道が事実なら、萩本はジョーンズが日本に来れるようになるまでの「中継ぎ」に過ぎ無いという事になる。

ジョーンズがジャパンの監督に来てくれたらもちろん嬉しい。だがその為に1年間、萩本にやらせて、その後またジョーンズに交代して…って、果たしてそんな事が上手く行くのであろうか。日本代表は、昨年のW杯の結果を見れば判るように、決して世界の強豪チームと互角に戦える能力を有している訳では無い。2007年のフランスW杯出場に向けて強化に割ける時間と言うのは、実はもうそんなに残っていないのである。萩本→ジョーンズと一貫したジャパンの強化プランがあって、それに沿ってトレーニングや国際試合が行われていくのなら問題は無いが、今までのラグビー協会がしてきた事を考えて見ても、そんなものが出来あがる可能性は低いだろう。となると、ジョーンズが就任した時点で、また0からスタート…となる可能性も無きにしもあらず、である。

また、別の可能性も考えないといけない。いくら国際ラグビーでの実績が豊富だとはいえ、ジョーンズが日本代表の指揮を取った時に、萩本より必ず好成績を残せる、という保証などどこにもあるまい。もし今年、萩本体制の新生ジャパンが予定される国際試合(イタリア代表戦など)で好成績を残し、2005年以降ジョーンズに交代したとたん、チームの歯車が狂ってしまい、不調に陥いってしまった場合は一体どうするのか。

これから新生監督が始動すると言う時に、「次の次」の監督候補者が決まっているというのは本当におかしい。そんなことで、萩本に100%の仕事をしてもらう環境が果たして整うのであろうか。

ラグビーの日本代表が、たいして国民的関心を持たれていないから許される事なのかもしれないが、サッカーではこんな事絶対にありえないであろう。もちろん、この話はまだ日本では報道されていないはずであり、確定ではないから、そこをご注意いただきたいと思う。サンスポの記事では、萩本氏の1年契約が延長もありうる、という含みを持たせている。また実際には、ジョーンズの豪州代表監督としての契約延長もありうるようである。だがやはり、繰り返すようだが「1年契約」というのは、何かキナ臭いのも事実なのだ。

(文中敬称略)


2004年3月20日

ミニシアター、シネコン、名画座

きのう「エド・ウッド」のことと、彼の映画「プラン9フロムアウタースペース」を、渋谷のユーロスペースで観た、という話を書いた。書いているうちに、なんだか自分でも懐かしくなってきて、このミニシアターに久しぶりに行ってみたくなった。もちろん、他にも優れたミニシアターはたくさんある。参考サイト

あまり他の映画館でかけない作品を上映してくれるミニシアターは、映画の好きな人々にとっては大変貴重な存在であると思う。でも今の私は実際のところ、それほど熱心な映画ファンという訳ではない。むしろ、普通の人よりも映画を、実際に映画館まで観に行く回数は少ないかもしれない。

ただ、10代〜20代前半の頃の私は、今とは違ってかなり熱心な映画ファンであったかもしれない。ミニシアターにはちょこちょこ出かけて、いっぱしの映画通みたいな行動をとっていたのである。そしてもっと幼かった中学生の頃には、「ロードショー」や「スクリーン」を毎月のように買い、「キネマ旬報」も、いまいち意味が分からないながら読んでいた。宣伝色の濃い角川映画の「バラエティ」も読んでいた。SF映画が好きだったので、以前にも紹介した「スターログ日本版」は特に必須であった。東京に行って一番嬉しかったのは、これで気兼ねなく、好きな映画を思う存分楽しめるぞ、と言うことであった。当時の東京には、まだまだ「名画座」と呼ばれる映画館がたくさんあった。ミニシアターも多かったし、「ぴあ」を観ながら、今日はここにこの映画を観に行こう…と考えるのが楽しかったのだ。

今にして考えてみれば、私は大阪に住んでいたのだから、大阪にもそういう良い映画館はたくさんあったはずだが、なんとなく「大阪の映画館は野暮ったい」という先入観があった。それに子供で金にも限りがあったから、あまり頻繁に映画を観に行けるわけではなかった。それに比べると、東京はまさに天国だった。

ところが80年代後半から、だんだんレンタルビデオ屋が普及してきた。自宅で手軽に映画が楽しめるようになったのは良いが、名画座は減っていった。昔は中央線沿線にたくさんあったが、今では名画座は殆ど残っていないと思う。また大学生で他の遊びが忙しくなった事もあって、劇場から足が遠ざかっていった。それでもミニシアターは割と好きだし、フジテレビの深夜枠で放送していた「ミッドナイトアートシアター」という番組は大好きであった。ミニシアター的な映画(どんな映画だ)は好きなのである。そして古い映画はもっと好きだ。だからミニシアター同様、名画座も頑張って欲しい。

最近は、日本でもアメリカ流のシネマ・コンプレックス(シネコン)が流行っていると聞く。確かに便利な施設だが、でも郊外型の巨大シネコンはどうかな…偏見で怒られるのを覚悟で言うと、映画は出来るだけ都会で見るのが楽しい。劇場から出て、そこが都会だと「虚構から現実に戻る」という、その瞬間が楽しいのである。

(文中敬称略)


2004年3月19日

エド・ウッド

私が大好きな映画のひとつに、ティム・バートン監督の「エド・ウッド」がある。

この映画、日本公開当時はそれほど話題にならなかった…コアな映画ファンの間ではかなり盛り上がったが…けれど、今見てもなかなか面白いと思う。何しろ主演はジョニー・デップ。そして共演にはビル・マレーにサラ・ジェシカ・パーカーと、いまアメリカの映画・TV界で絶好調の俳優がたくさん出演しているのだ。デップは、主人公のエド・ウッドを演じている。このエド・ウッド、映画史上に残る監督である。でも優れた作品を撮った、というのではなく「史上最低の映画監督」として知られているのだ。デップは、このウッドを活き活きとした演技で演じきり、非常に好感が持てた。その後のウッドはやや気取った役どころが多いのだが、この映画におけるデップは最高だ。

さて本物のウッドが撮った作品は、現在のところ3本ほど残っているのだが、そのどれもが駄作揃い。それもただの駄作ではない、飛び切りの超駄作ばかりだ。脚本は馬鹿馬鹿しく、撮影技術は稚拙で、役者は棒読み。とにかく、何回見ても訳がわからない。本来なら箸にも棒にもかからない作品、フィルムのムダ使い以外の何物でもない筈なのだが、そのあまりのつまらなさ、出来の悪さがかえって、後の映画オタクにうけてしまったというわけだ。私自身、当時渋谷のユーロスペースで彼の「プラン9フロムアウタースペース」を見た。ウッドの駄作群の中でも、特に大失敗作の誉まれ高い作品だ。本当ならホラーSFなんだけど、劇場ではオープニングからラストまで、爆笑また爆笑の連続であった。そういえば別の最低映画としても名高い「死霊の盆踊り」。この脚本もウッドが担当していた。

そんなウッドだけど、映画に対する愛情だけは誰にも負けていなかった。いや人一倍あったと言っても良いだろう。それは尊敬していたオーソン・ウェルズにも、決して劣ってはいなかった。でもウェルズと違っていたのは、ウッドには映画を撮る才能が無かった事だ。エンタテイメントや芸術の世界で、才能が無いというのは致命傷だ。でも、どうせ才能が無いのなら徹底してない方が、時として社会に(本人が望まない形であるとしても)熱狂的に受け入れられる事もある、ということをウッドの映画が教えてくれたのである。生前のウッドは経済的にもかなり困っていたようだが、ひょっとしたら、それで良かったのかもしれない。もし彼に10億円もあれば、もう取り返しのつかないような超大駄作を作っていたに違いないからだ。でもそんな映画、ホントに存在しますよね。具体名は挙げないが…

そんなウッドを描いた「エド・ウッド」。ラストシーンは、ちょっとホロリとさせる作りになっている。あまり落ちぶれてしまった後半生は見せず、いい所で切ったと思う。1994年の作品だが、私はこれを銀座の映画館で見た。今も、思い出に残っている。

 


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