過去のコラム

2004年3月13日

長英生誕200年  

今年2004年は、高野長英が生誕して200周年にあたる。長英の生まれ故郷である岩手県水沢市では、昨年から来年までの3年間、様々な記念事業が行われている。中にはミュージカル「ドクトル長英」上演などユニークなものもあるようだ。参考サイト

文化元年(1804)生まれの長英は、22歳の時長崎にてフォン・シーボルトの門で蘭学や医学を学び、卓越した学力・語学力を誇った。当代随一の蘭学者となった長英は、幕府の外交政策を批判した「夢物語」を著したところ幕府の逆鱗に触れ、渡辺崋山ら他の洋学者とともに投獄されてしまう。世に言う「蛮社の獄」である。ところが長英は入獄中、火災に乗じて脱獄。その後は幕府の厳しい捜索網を巧みに潜り抜けて逃亡・潜伏を図りながら、後には極秘に江戸に戻り、洋書の翻訳を行った。この洋書とは英国やフランス、プロシアなど、いわゆる西洋の軍事制度について書かれた兵書であった。西洋事情に疎い幕府が旧体制を改めないままでは、いつかは日本も清国のように欧州列強の食い物にされてしまう。だが200年以上鎖国していた日本と西洋では軍事力に格段の違いがあるため、もし現時点で戦火を交えれば敗れることを知る長英は、世界の軍事制度や用兵、また砲術についての洋書を翻訳しそれを広める事で諸侯が目覚め、西洋式の軍事技術を取り入れて日本の軍事制度が改革される事を期待したのである。

これに目をつけたのが、伊予宇和島藩主の伊達宗城であった。後に「幕末四賢候」と知られ開明的な考えの持ち主だった伊達宗城は長英を宇和島に招き、兵書翻訳と砲台設計・建設に従事させた。だが幕府は長英の宇和島滞在を察知した為、宇和島藩は長英に手許に置いておくのは危険と判断し、長英も再び逃亡。結局は江戸に再度潜伏していたところを見つかってしまい、最後は自害して果てたのである。宗城や薩摩藩主の島津斉彬など、長英の能力を知る名君達は、その死を深く悲しんだといわれている。

脱獄・潜伏という苦しい生活を送りながらも長英が兵書の翻訳を続けたこと、そして最後は自ら顔を薬品で焼いて人相をも変え、医者として生計を立てようとしていたことなど、そのドラマチックな生涯は興味深いが、明日捕らわれて殺されるかも知れぬ不安定な精神状態の中で、なお日本第一の語学力を駆使して翻訳作業に従事したという精神力にも頭が下がる思いである。もし「蛮社の獄」が無かったら、そして長英が幕末の時代まで生きぬくことがあったら、日本の歴史にどのような影響を与えていたか、そんな「たら・れば」を勝手に想像するのも面白いことだ。今回の水沢市の記念事業などを通じて、長英の生涯に興味を持つ人が増えてくれればうれしいと思う。


2004年3月12日

ホームページと掲示板

私は当サイトにおける掲示板の過去ログを、全てではないが数年前のものを一部保存している。今の「シーズンチケット」は3番目のものだが、一つ前のバージョンとなるパート2は2000年前後に使用していたもので、この頃の書き込み量が一番多かったように思う。それは自分自身も他のサイトにいろいろ書き込みしていたからで、そこで私のサイトを知った人が訪問してくださった訳である。そういえばこの掲示板は有料レンタルであった。

サイトのコンテンツと、掲示板の力関係は比率で言うと、70:30くらいがちょうど望ましいと思う。コンテンツがどんどん更新されて、それにつれて掲示板が賑わうのがベストであろう。しかし私のサイトは、自分で言うのもなんだが全然更新されないサイトなので、その頃の力関係は0:100に限りなく近かった。そしてその状況が非常に嫌だったが、レスをつけるのも楽しかったので、なんとなくズルズルといってしまった。

サイトはあくまでコンテンツが主であり、掲示板は従であるべきだというのが持論である。ネットコミュニティの形成は意義のあることだと思うが、それなら何のためにサイトを開設したのか、という事になる。何か言いたいこと、表現したいこと、残しておきたい事柄、テーマがあってサイトを作ったはずである。最近は日本でもようやくブログが定着してきたようだが、これだってコンテンツというか、元になる記事が継続的にポストされていかない事にはたいして意味が無いだろう。酷いサイトになると(あまり人の事は言えないが)トップページと掲示板だけのサイトもある。掲示板だけならそれこそ巨大掲示板として有名な「2ちゃんねる」があるし、同好の士同士で交流を深めるのが主目的なら、MLなどを積極的に活用してもらえばよいのだ。

そして望むのは、オリジナルのコンテンツを作ってほしいということである。スポーツ系で言えば最近、メジャーリーグ関連のサイトを立ち上げる人が増えたが、新味に乏しい。もっとよく研究して、自分なりのアイデアを詰め込んだ、オリジナル・コンテンツを用意して欲しいものだ。逆に人気低落が著しいラグビーはサイトの閉鎖、未更新が多いように思う。こういう時こそファンの側から、ラグビーの魅力を伝える必要があると思うのだ。とにかく、サイトの更新というのはめんどくさい作業の連続である。仕事ではない、自分の趣味でサイトを運営している人なら、日常生活にまで負担が及ぶようでは馬鹿らしいので、サイトを閉じてしまうのもよく理解できる。更新できないのならいっそ閉鎖してしまえ、というのは立派な姿勢だと思う。

しかしそれでも、サイトを作るという作業は面白いものだ。サイト制作というのは、自分がいかに何も知らないか、ということを思い知らされる事の連続である。だから貴重な時間となりえるのだ。


2004年3月11日

ヘップ

サンダルという履き物があるが、あれを皆さんはなんと及びになるだろうか。私は子供の頃から「モード履き」あるいは「つっかけ」と呼んでいた。前者は「もーどばき」と読む。

しかし他の人から、あまり「モード履き」という呼び名は聞いたことがなかったと思う。むしろ「つっかけ」の方が、河内の下町ではメジャーであったと記憶している。またもーどばき、にはちょっと古臭いイメージがある。実際には、つっかけという呼び名の方が古いと思うのだが、「モード履き」には中途半端な古さ、つまり戦後の、昭和30〜40年代の匂いを感じてしまうのだ。

その他に「ヘップ」という呼び名もあった。この「ヘップ」というのは一体何を意味するのか、つい最近まで知らなかった。だがインターネットというメディアは、聞けば何でも答えてくれる(当たっているかどうかは慎重にならないといけないが)。この疑問にもスッと回答をよこしてくれた。

ヘップとは、あの往年の名女優、オードリー・ヘップバーンに由来するのだという。興味のある人は、一度検索してみてください。ヘップバーン絡みの名称なら「サブリナパンツ」は知っていた。しかし履き物の「ヘップ」がヘップバーン由来とは、まさに私にとってへぇ〜の世界であった。ということは、やはり昭和30年代にこの名称が広まったものと推測される。語源を知らないうちは何だかぱっとしない呼び名に思っていたが、一度由来を知った瞬間、あの名女優オードリーがサンダル履きで、軽快に駆けて来るシーンが思い浮かんできて、なんだか急にお洒落に思えて来た。

他にも女優関連で付いた名前の商品には「ケリーバッグ」というのがあるが、これは私の場合、JRAのサラブレッドに同名の馬がいたため覚えた。ハイセイコーの仔で芦毛。牝馬で、けっこう強かったはずだ。今ごろはその子供が走っているのであろうが、ここ数年は競馬にとんとご無沙汰なので、よく判らない。


 

2004年3月10日

Can you tell me how to get
How to get to Sesame Street?

NHK教育テレビの長寿番組「セサミストリート」が、日本での放送を終了する事になった。
公式サイトにも、4月3日をもって番組が終わり、サイトが10日限りで閉鎖される事が告知されている。同番組を制作しているアメリカの会社と、NHKの意向が食い違い交渉決裂したのがその理由だという。参考記事:日刊スポーツ

私が子供の頃、既に「セサミ」は人気番組だった。あの軽快なテーマ曲♪Sunny Day
Sweepin' the clouds away...が流れてくると、私の胸は高まった。どうして「セサミ」が楽しみだったかというと、番組自体の持つ楽しさはもちろんの事、この番組に当時日本語のテロップや吹き替えが全くついていなかったからである。つまり私は、登場人物が何を話しているのか、全く理解する事が出来なかったのだ。ここが重要な点で、全く分からない言語である「英語」を判るようになりたいと、これほど痛烈に感じさせてくれる番組は当時なかったのである。洋画番組はたくさんあったが、全て吹き替えか二ヶ国語放送であり、「セサミ」ほど英語の持つ魅力を私に教えてはくれなかった。

10歳の時、近所にある英会話スクールに通うことになった。英会話、と言っても子供が対象だから、英語の歌を歌ったりゲームを行ったりと他愛もないことをやるだけである。でも先生はアメリカ人ではなく、アルバイトの女子大生であった。その人がまたとても優しい人で、英語が話せる先生は憧れの的であった。だがこの英会話スクールに通わないか、というセールスマンが来た時、私はいったん断った。そのときの理由を今でもよく覚えている。「僕はいま、学校でローマ字を習っています。ローマ字も満足に使えないのに英会話はむりでしょう」。それでも結局通うことになったのは、「セサミ」を通じて知った英語の魅力に、私がとらわれていたからに他ならない。

米国側は、「セサミ」を日本語で放送するようNHKに打診し、それをNHKが拒否したのだという。NHKはあくまで、「セサミ」を語学番組としてとらえていたからだ。アメリカの会社はわかっていないなぁ…と思う。これは、NHKの言い分が正しい。私にはまるでちんぷんかんぷんな言葉を登場人物が話しかけてきたからこそ、「セサミ」は何時までも心に残ったのだ。ビッグバードが日本語で話したら、それはもうガチャピンと変わらないじゃないか。


2004年3月9日

余人をもって替えがたし  

1941年12月8日、ハワイ真珠湾に停泊していたアメリカ太平洋艦隊への奇襲攻撃を成功させた山本五十六連合艦隊司令長官は、1943年4月にソロモン諸島にて前線視察中、敵機の攻撃に遭い撃墜され戦死した。その山本長官の検死報告を読んだ医師の報告について、千早正隆が「昭和史が面白い(半藤一利編著、文春文庫)」の中で紹介している。山本が戦死した時、彼はベリーベリー(脚気)の末期的症状であったと書かれていた、と言うのだ。

千早は続けて「山本さんは、真珠湾とミッドウェーの時では全く態度が違っていた」といい、座談会に参加していた、千早と同じ元海軍将校出身である作家の吉田俊雄も「疲労のみならず脚気にもかかっていた、それらが思考にどういう影響を及ぼすのか海軍は考えていなかったんだ」と歎息している。(Pp138−139)

時の海軍大臣は嶋田繁太郎だった。嶋田は山本の海軍兵学校同期であり、山本の健康状態などを考えて、彼を交代させる事のできる人間であった。しかし嶋田は「山本は余人をもって替え難し」などと言うだけで、遂に山本更迭を決断しなかったという。(同書、P145)

いかに国民からの絶大な支持を集める指揮官であっても、健康を害してしまってはもはや100%の活躍を期待することは出来ない。連合艦隊司令長官は海軍の現場指揮官トップであり、その双肩にかかる期待は並外れたものであったろう。そのプレッシャーが山本の健康を蝕んでいったに違いない。だからいくら能力があったとしても、体調万全でなければ交代は必然であったと言える。

戦争とスポーツを同列に考える事は出来ないが、いま長嶋茂雄が直面している問題もちょっと似ている。人々は長嶋の人気と名声にすがり、たとえ脳梗塞で倒れても「長嶋は、余人をもって替え難し」というような事をいう。生命の危機を脱し、これからリハビリをやろうかという人間に、「あくまでもアテネは長嶋監督。後任のことなど考えていないし、考えるつもりもない」などという日本代表の編成委員長発言は、真意はともかくどうだろうか。実際には水面下で後任選びは進んでいるとしても、この状況でこういう発言が出るのを聞くたび「長嶋茂雄」とはなんともかわいそうなお人だと、心から同情申し上げるしかないのである。

(文中一部敬称略)

 

 


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