東京ドームで、競輪を開催したいというプランがある。日刊スポーツのサイトに、この件に関するコラムが掲載された。参考:日刊スポーツの記事 この記事を読んでもらえば分かるように、東京ドームには競輪を開催する為の施設が設けられている。そして旧後楽園球場では、かつて競輪が開催されていた。だがドームのある文京区は、ドーム競輪の開催に反対しているのだ。関連記事 個人的にはたいへん興味深く、以前から関心を持っていた話題であった。というのは、私は日本で働いていた頃、全国各地の競輪場へ出張することが多かったからである。その関係で、ドームに競輪の設備があることも聞いたことがあった。確かに東京ドームで競輪が開催されれば、これは大きな話題になるし、人気が出る可能性も高い。しかし競輪や公営競技の持つネガティブなイメージがそれをなかなか実現させてくれない。東京ドームは各種イベントの開催も目白押しだろうし、ここにまた競輪開催と言う事になれば、他業界への影響も深刻であろう。 私自身は競輪をやらないが、現場で見ると楽しいスポーツだと思う。迫力があるし、選手は立派なアスリートだ。だがJRAがお洒落なイメージ路線で成功したのに対し、競輪はどうもその辺の戦略が上手く行ってないように思う。本質的には何も変わらない、どちらも同じギャンブルじゃないか。確かにそうなのだが、特に日本という国はイメージに左右される要素が大きい社会だと思うので、これはけっこう痛い。 一方では「競輪場に行った事の無い人間が競輪を語るな」という意見もあり、的を得た批判である。百聞は一見にしかず、先入観だけでモノを言う事ほど愚かで、危険な事はあるまい。だが今の競輪場を、家族揃って楽しめるレジャーランド、という風に捉えている人が少ないのも事実であろう。しかも実際に行って見て 「もう競輪場なんて行きたくない、家族を連れて行けない」と思われたらおしまいである。 話は変わるが、私が新入社員のころ、東北のある競輪場に出張した。開催日なら駅前から場まで無料のバスが出ているのだが、その日は開催が無かったので駅前でタクシーを拾った。「どこまで行くの?」「競輪場までお願いします」。 しばらくすると、運転手が私を説教しだした。「オレァ、競輪とかはやったことねぇな。あんまり好きじゃないなぁ」。まぁ説教というほどの物でもないのだが、競輪場に行く私=競輪ファンに見えたのであろう。仕事だからきちんとスーツにネクタイを締めていたし、そんな格好で競輪に行く人もいないと思うのだが、あの運転手にとって、それはあまり重要ではないのだろう。ひょっとしたら競輪へ向かう客を乗せるたびに、いつもそんな事をぶつぶつ言っているのかもしれない。あるいは、私が当時まだ20代前半の若者だったので、ギャンブルにのめりこむのを諌めたかったのかもしれない。 本当なら「いや、競輪をやりに行く訳じゃないんです、仕事なんですよ」と言うべきところだし、また「ふざけるな、なんでお前にそんな事言われなきゃいけないんだよ。俺の勝手だろうが」と、血の気の多いファンを装って反論をしても良いのだが、私はこういうシチュエーションが割と好きなので「はぁ、そうですね、本当ですねぇ」と、反省する競輪ファンを演じていた。運転手は満足そうに頷いていた。 確かに競輪好きのオヤジたちが、開催日に群れをなして集まっているのはあまり美しい光景では無いだろう。ファンの方からすれば偏見であろうが、悪いイメージで捉えている人が多いのは事実である。日刊の記事には割とポジティブな意見しか書いていないが、まだまだ他の娯楽に比べて、ファンの方も洗練されているとは言えないと思う。東京のど真ん中、エンターテイメントのメッカである東京ドームで競輪を開催するのなら、都や競輪業界だけでなく、ファンの方の方も意識改革が問われるのではないだろうか。 ただそうなると、ギャンブルの持つ怪しい魅力も同時に失われてしまうんだよなぁ…。なんとなく昔かたぎなギャンブルに憧れを抱く者としては、それはそれで寂しい気がするのだ。 |
初めてインディアナを訪れたのは、6月下旬のことであった。ロサンゼルスを経由してインディアナポリスの空港に着き、日本で予め手配しておいたリムジン・サービスの車に乗り込んだ。州最大の都会であるインディアナポリスの町も、東京や大阪を見慣れた者にとっては単なる地方都市にしか見えなかったが、一歩空港を離れてみると、そこにはさらに想像を絶する世界が待ち受けていた。 とにかく、えんえん田舎道が続くのである。沿道には、およそ家という物がない。たまに看板や信号、そしてすれ違う車を見る以外は、他に人間の気配を感じさせてくれるものは無かった。そして日もとっぷりと暮れてきて、いよいよ私は心細くなってきた。リムジンの運転手は若い男であったが、もしこの男が銃か何か持っていて、雑木林の中に連れ込まれて射殺され、身包みはがされたら全く抵抗のしようも、逃げ様もないな、と思った。そのときはもう、覚悟を決めるしかあるまい。「アメリカ=銃」という短絡的な思考が、私に悲壮な覚悟を抱かせていた。 そんな事を考えているうちに、やがて車は目的地に着いた。もうすっかり日が暮れていたが、ブルーミントンという町は比較的都会で…それまで通ってきたところに比べれば…少しは気が楽になった。運転手は、もちろん銃を突きつけるはずも無く、私と荷物を降ろしてにこやかに見送ってくれた。とても良い人だった。私は用意しておいた宿にチェックインし、部屋に入ると、いろいろな疲れがどっと出たのか急に眠気に襲われたので、ベッドに横になった。 だが、しばらくすると空腹感に襲われた。まだ夕飯を食べていないのだ。しかしこの町に、果たしてレストランはあるのだろうか?右も左も分からないところを、夜中にウロチョロするのも心細い。私は宿を出たところにある「ヴィレッジ・パントリー」という、ちょっとしたコンビニに入った。そこでスペアリブ・サンドイッチとジュースを買い、部屋に戻って食べた。サンドイッチは冷たく、しみじみと不味かった。だがその冷たい不味さが「今日から新しい生活が始まるのだ」と言うことを実感させてくれた。そして「これからは、もう毎日こんなメシしか食えないのだ、アメリカに来た以上、決して贅沢は出来ないぞ」と心に固く誓ったのである。 アメリカ生活初日は、こうして幕を閉じた。翌日以降のことはあまりよく覚えていないのだが、このなんとも心細かった1日のことだけは、今も忘れる事が出来ない。
|
以前にもお話した通り、私はニューヨークに来る前にインディアナという、中西部にある小さな州に住んでいた事がある。この州には有名な大学が幾つかある。まず州北部サウスベンドという町にある、私立のノートルダム大学。同じ名前の学校は京都にある。だから名前自体は、日本人にも馴染みが深いであろう。 ノートルダムはカソリック系の学校であり、アスレチック・チームの愛称は「ファイティング・アイリッシュ」だ。このアイリッシュのフットボール・プログラムは全米屈指の人気を誇り、過去にもジョー・モンタナなどの有名選手を数多く輩出、映画「ルディ」にも取り上げられた。アイリッシュは、フットボール以外のスポーツはビッグイースト・カンファレンスに所属しているが、フットボールだけはインディペンデント、つまり独立校の地位を堅持している。どこかのカンファレンスに所属すると、同一カンファレンス内の学校との対戦が義務となるが、アイリッシュは全米屈指の人気とカンファレンスに束縛されない独自の強みを背景にして、注目の対戦カードを組んでいる。そしてアメリカの主要ネットワークTV局、NBCと単独で契約を結んでいるのだ。さらに主要ボウルゲームへの出場を決めるBCS(ボウル・チャンピオンシップ・シリーズ)にも、ノートルダムには優先措置が取られている。 アイリッシュのヘッドコーチといえば、私にはルー・ホルツが馴染み深い。今は南部のサウスカロライナ大学へ移っているが、ホルツはフロリダ州立大学のボビー・ボウデンや、ペンシルバニア州立大学のジョー・パターノなどと並んで、現代大学フットボール界を代表する名将として知られている。そのホルツが最も輝いたのは、このアイリッシュを指揮していた時と言ってよいだろう。 だがインディアナの最も人気あるスポーツはやはりモータースポーツと、そしてバスケットボールである。インディアナ大学(IU)フージャーズのバスケットボール・プログラムは全米屈指の名門だが、フージャーズのヘッドコーチとしてその名をとどろかせたのはボブ・ナイトであった。彼はオハイオ州立大学の一員として全米大学選手権優勝を達成した後コーチの道を歩みだし、やがて陸軍士官学校のコーチとなり、それから1970年にIUにやって来たのである。以来ナイトは全米学生選手権を3度制覇、現役コーチの中では最も多くの勝ち星を挙げている。 1984年のロス五輪ではアメリカ代表のヘッドコーチを勤め、マイケル・ジョーダンなどを擁してアメリカに金メダルをもたらした。また現在、ニューヨーク・ニックスの球団代表を勤めるアイゼア・トーマスもIUの出身であり、ナイトを師と仰ぐ人物だ。今や全米最高のカレッジバスケプログラムを作り上げた「コーチK」こと、デューク大学ブルーデビルズのマイク・シャシェフスキも、学生時代からナイトの薫陶を受けている。 だがこのナイトほど、そのコーチぶりを巡って賛否両論分かれる人物もいなかった。熱血指導は良いのだが、そのあまり試合中に椅子をコートへ投げ込んでしまったり、記者会見で毒づいたり、練習中に選手に手を上げたり…ナイトにコーチしてもらいたくてIUに入る選手もいるが、ナイトを敬遠、あるいは毛嫌いして他の学校に流れる有力選手もいた。そして遂に2000年秋、ナイトはIUを解雇されてしまい、インディアナを去ることになってしまったのである。いま彼は、テキサス工科大学のヘッドコーチを勤めている。もう彼は、インディアナの人では無いのだ。ナイトのトレードマークはフージャーズのチームカラーである赤いセーターであったが、今はもう黒いセーターを着て試合に臨んでいる。いまナイトは63歳、もう一度全米制覇を成し遂げる日はやってくるのであろうか。 |
昨日のコラムの冒頭文、 「ニューヨークは、ほんとうにいろんなタイプの日本人がいる。日本人である以上、ある程度は共通の部分を持っており、そこから抜け出す事はいろんな意味で難しい。」 というのは、実は別のトピックを書くために用意したものであった。ところが書いているうちに食べ物話が始まってしまい、本来のテーマについて書くスペースが無くなってしまったのだ。その本来のトピックというのは「駐妻」についてである。知らない方も多いと思うので説明すると「駐在員の妻」の略称である。日本企業から派遣されてきた駐在員のその妻、という訳である。では昨日の書き出しを使ってこのコラムを書き進めてみよう。 ニューヨークは、ほんとうにいろんなタイプの日本人がいる。日本人である以上、ある程度は共通の部分を持っており、そこから抜け出す事はいろんな意味で難しい。ところがその中で異彩を放っているのが「駐妻」こと、駐在員の妻である。この駐妻、NYのマンハッタンに多く生息している。そして多くの場合、街中を歩く「駐妻」は簡単に認識する事ができるのだ。チェック・ポイントを挙げてみよう。 「格好が小奇麗で、高価なものを身につけている人が多い。つい最近まではチューリップ・ハットを被っている人が多かった。そしてベビーカーを押して、まだ1−2歳の子供を連れている」 もちろん駐妻にもいろんな年代の人がおり、40-50代の駐妻がベビーカーを押している事は稀であろう。しかし20〜30代の人々で、このベビーカーを押している人が多いのだ。もちろん「駐妻」でなくても、子供がいればベビーカーは押すであろう。そしてそれなりに、小奇麗な格好もしている事であろう。だが、それでも、「駐妻」ははっきりと認識できるのである。見事なまでに、彼女達は同じ種族であることが丸分かりなのである。一方、彼女達の旦那である「駐在員」は、意外に見分けが難しい。日本人なら、本来は男性の方が没個性なはずだが、日本人以外のビジネスマンも特別個性的な服装をしている訳では無いので、同じアジア人・アジア系だとなかなか判別は難しい。まして永住者と駐在員の見極めなど不可能に近い。しかし「駐妻」は、明らかに他の日本人女性、ワーキングウーマンや、留学生や、そして短期滞在の旅行者と違う。もちろん他のアジア人・アジア系女性とは雰囲気が違う。 これは差別・非難している訳では無いので誤解しないで欲しい。だがあえて言ってしまえば、彼女達の方から「違うのよ」というオーラを発している気がするのだ。偏見であろうか?ひょっとしたらそうかも知れないが、たぶん、事実と思う。何がどう「違う」のかよく分からないが多分、違うのであろう。 駐妻には駐妻の社会がある。駐妻には駐妻のライフスタイルがある。独自のソサイエティがある。そこでは彼女達は主役だ。彼女たちのライフスタイルは、だんな達よりはるかに充実している。英会話の学校に通い、お稽古事に精を出し、ちょっとした旅に出かけ、ブロードウェイのミュージカルや、リンカーン・センターのオペラ鑑賞等はほぼ月例である。妊娠すれば、今度はママさん&ママさん予備軍の会が待っている。自分たちに必要な情報は全てゲットできる仕組みになっているのだ。しかし駐妻の社会には独特のヒエラルキーがある(らしい)ので、その中では気を使うので大変だ(そうだ)。 これが他の都会なら、基本的には車社会になり、外を歩いている事が少ないのであるが、NYなら地下鉄やバスを使って何処にでも行ける。だから目に付く。そして彼女達は、いろんな意味で一様にリラックスしている。この精神的余裕から来る表情の違いが多分、駐妻を見分ける最大のポイントであろう。 もちろん永住者には永住者の共通項、留学生には留学生の共通項、芸術家(予備軍)の共通項、そして在住日本人全体の共通項もありますので、NY駐妻の皆さん、これ読んでも怒らないでね。自分と違うカテゴリーの人々を攻撃するのは、人間の良くない癖ですから… しかし駐在員一家というのは、ある意味ではかわいそうな人々である。海外生活がしたいから来た、という人ばかりではない。社命により仕方なく来た人も多いのだ。ましてや奥さんや子供は、父ちゃんの都合で来ただけである。そう考えたらせいぜい、羽根を伸ばしてもらって構わないのである。どんどん海外生活をエンジョイしてくださいね、はい。 (文中敬称略) |
ニューヨークは、ほんとうにいろんなタイプの日本人がいる。日本人である以上、ある程度は共通の部分を持っており、そこから抜け出す事はいろんな意味で難しい。よく批判されるのは「なぜ海外在住の日本人は、日本食ばかり食べるのか」と言うことである。私も日本食が主体の食生活なので、この批判から免れる事は出来ない。「現地にいる以上、もっと現地の食べ物を食べて生活すれば良いじゃないか。なにも高い、賞味期限切れに近いものを無理して買いあさる事などあるまいに…」という論法である。 確かにその通りなのだが、でも自分自身のことを振り返ってみると、日本にいるころは結構日本料理以外のものを食べていた。むしろ、あっさりした味付けの和食は物足りなくて嫌だった。アメリカに来て、逆に日本食の依存度が高まったように思う。これは、私がちょうど30代に入ってからこちらへ来たので、食に関する嗜好が変化してきた時期と重なる事も関係があるだろう。 日本に住んでいた若い頃は、焼き肉やトンカツが好物であった。一方では、ステーキやピザ、フライドチキンなどの「アメ食」も大好きだった。こういう食べものは、今でも好物であることに変わりは無いが、でも焼き魚や煮魚、また豆腐にそばなどが、より好きになってきたのである。一言で言うと、オヤジ化したのであろう。もちろん、若い頃からアメリカに来て、ずっと生活し、アメリカ式の食生活やライフスタイルに慣れてしまった人は、何時まで経っても和食が恋しくないかもしれない。 では私自身、毎食アメ食のみで過ごすのが嫌か、苦痛かというとそうでも無い。ただアメリカの食事は、どうにも味が単調に感じられて飽きてしまう。これは地方に行くとよけい感じられる。ニューヨークは、アメリカの中では美味しいレストランが多いのだが、そう外食ばかりするわけにもいかない。せいぜい10日間連続が限度であろう。ましてニューヨークは和食のバリエーションが豊富であり、その誘惑にはなかなか勝つことが出来ない。だから日本人同士が集まると、情報交換には「美味しい和食の店が出来たよ」がメインになったりするのである。 ユニークなケースとして、私が以前に出会った男性を紹介しておこう。彼は日本人女性とアメリカ人男性のハーフで、米国で生まれ育った。見た目にも日本人らしさはあまりなく、実際には典型的なアメリカ人と言っても良いかと思うが(日本語は上手)母親が日本人だったおかげで、家庭では和食を食べて育った。すると何が起こったか。彼はアメリカ人の女性と結婚した。彼女はごく普通の白人である。二人は子供を設けたが、その家庭では子供たちが、ノリの佃煮や納豆、ふりかけなどをおかずにご飯を食べていた。父親が和食を食べるので、子供たちもそれに倣った食生活を送っているのだ。彼の子供達(日本人の母から見ると孫)になると、もはや日本人の面影は殆ど無いが、毎朝食べているのは「ごはんですよ」。子供達にとっては和食が家庭の味なのである。彼らが大人になった時、どんな食べ物ものを欲するのであろうか。 |
もっと過去のコラム
|