昨日のコラムで米丸の話を書いたが、この人のその後を書き忘れていた。東京に留まった米丸は、後に桂小文治を襲名する。そして後進の指導にあたるのだが、その弟子の中に先日なくなった十代目文治がいるのである。この小文治のテープを聴いた事あるが、ちょっと耳にこそばい(くすぐったい)語り口であったような記憶がある。 さて、今日の本題。本題ってほどのことではないが…
それはなぜだろう。大きく分けて3つあると思う。 1.書いている人、番組を作っている人の勉強不足 2.頭が悪い 3.貧乏くさい これらの項目は人によって定義が違うだろうが、筆者は常々そう考えている。スポーツそのものについて勉強していないか、あるいはスポーツしか知らない。スポーツ以外の幅の広い勉強が出来ていない。スポーツという対象について、突き詰めて考えていない。 3については、これも説明が難しいが、今のスポーツ選手はかつてないほどお金を稼いでいる人が多くなってきた。もちろんその一方では苦しい生活を強いられている人も多いのだが、メジャースポーツの一流どころでは3、4億、世界のスーパースターなら10億円以上はざらだ。そんな人たちを対象にする仕事を、たとえば年収1千万円くらいの人間が満足に出来るはずがあるまい。その人に能力があれば別だが、そうすると今度は2、次に1の問題が発生してくる。知性がなく教養がなく、まして貧乏くさい奴に、どうして世界のスーパースターや、一瞬のプレーに命を削っているアスリートのことが存分に描けようか。 本質的には、「リッチなスポーツ選手」をネタにするのに、自分がリッチである必要もないのだろうが、少なくとも彼らがどんな生活を日々送っているのか、想像すらつかない生活レベルの人間ではちょっとダメだろう。どんな服を着ているか、どんなものを食べているか、どんな車に乗っているか。確かにそれは、人間の本質とは無関係であろう。だがもし自分がスーパースターだったら、少なくとも小汚い奴にだけは、自分のことを書いて欲しくないと思うに違いない。日常の生活というものを決して馬鹿にすることは出来ない。 アスリートは自分の体を張っている、身を削ってプレーしている。生活と、人によっては人生を賭けている。それと同じレベルで仕事している人間が、今の日本のスポーツメディアにどれくらいいるのだろうか。そして彼らと同じ土壌で仕事をできるだけの才能をもつスポーツ・ジャーナリストが、一体どれくらいいるのだろう。(文中敬称略) |
昨日の続き。 明治41年に七代目文治を襲名した、もと文団治の文治(なんだか訳がわからないが)は、「寄席楽屋事典」によると、後輩の面倒見の良い親分肌の人だったらしい。その文治が、大正中ごろに引退を表明した。それが正確には、大正何年の事だか正確にはわからないらしい(富士正晴「桂春団治」)。大正時代のことが、もう戦後になると解らなかったのだ。それはともかく、文治は大阪南地紅梅亭にて、盛大な引退興行を打った。まだ吉本が、大阪の演芸界を支配する前のお話だ。引退口上では口上を述べる噺家も、それを聴く客席も、また楽屋でさえも涙をぼろぼろこぼしていたという。大変良い雰囲気だったのだろう。 この時、東京の落語界を代表して、「品川の師匠」こと、四代目橘家円蔵が口上にやって来た。やって来たのは良いのだが、これがトラブルの原因となる。円蔵の元には、大阪から東京に行った米丸という落語家がいた。円蔵は口上の際、文治へのはなむけよりも、米丸の売り込みみたいなことを延々高座から述べたそうだ。怒ったのが春団治。円蔵の上がっている高座に乗り込むや、東京の大看板に真正面から文句を付けた。円蔵さんよ、大阪まで文治の口上を述べにきたのか、それとも米丸の口上に来たのか。 予測もつかない事態に客席は唖然、楽屋は騒然。華やかになるはずの引退興行が一転して、スキャンダラスな事件になってしまった幹部連は憮然。紅梅亭の席亭、原田政吉は、張本人の春団治に「春団治師匠、えらいことしてくれましたな」と苦情を持ち込む…といった具合であったという。 ところでこの円蔵、円馬コラムを読んでいただければ判るが、むらく時代の円馬が東京を去るきっかけとなった人である。初めはむらくを守り立てていたのだが、そのあまりの売れっぷリと実力に、途中から怖くなってきたらしい(桂文楽「芸談あばらかべっそん」)。それでむらくとの関係が険悪になり、遂には破綻したようだ。むらくも相当自信家で強い気性の持ち主であり、周囲から自制を求められていたようだが。という訳で、円蔵は円馬と春団治、大正から戦前を代表する二人の上方落語家と因縁を持った事になる。七代目引退興行での一件を聞いて、円馬はどう思っていたのであろうか。 やがて文治の名は、約束どおり東京に戻された。八代目文治は、本名山路梅吉。「祇園祭」という噺を得意にしていたという。戦後は落語協会の会長を務めていた。文楽、志ん生より前の話だ。昭和30年に亡くなっている。「家元」を名乗ったらしい。で次の九代目は、本名高安留吉、人呼んで「留さんの文治」。この人有名な倹約家、つまりケチだったらしい。同じ長屋に住んでいた林家正蔵(彦六)のところに毎朝来ては、玄関口で新聞を読んで帰ったそうだ(吉川潮「江戸前の男」)。つまり新聞代をうかそう、というお話。でもそういうのって、いかにも昔風というか、長屋の濃密な人間関係が感じられて結構良いではないか。 正蔵と九代目文治の関係、また二人が住んでいた長屋については、正蔵の弟子である林家正雀の「師匠の懐中時計」(うなぎ書房刊)にも詳しいエピソードが載っているので、是非読んでいただきたい。ひとつ紹介すると、入院した文治を正蔵が見舞ったとき、文治がすっかり弱ってしまっていた。「1+1はいくつだい」も答えない。そこで正蔵、「100円+100円では」に文治「200円」と答えたとか。本当かどうか知らないが、キャラ通りの良い話。 という訳で、桂文治という名はとても由緒がある名…と言う事が伝わったかどうかわからないが、文治代々のエピソードを2日間に分けて書いて見た。楽しい落語を長年に渡ってファンに聴かせてくれた、十代目文治師匠のご冥福を心よりお祈りします。(文中敬称略) |
十代目桂文治が死去した。(関連記事) 体の具合が良くないらしい、というのはネットによる情報でつかんではいたのだが、まさか白血病とは思いもよらなかった。彼がテレビの人気者だった伸治の時代は知らない。むしろ桂の、いや落語界を代表する大名跡である、文治を継いでからの高座が懐かしい。何時も和服を着て江戸前…とハンで押したような評価を与えられてきたが、本人もあえてそれに乗っかかり、己のスタイルを押し通した節がある。それはそれで大変なことだ。「談志百選」によると、談志の家には文治に書いてもらった「鬼畜米英」という書があるそうだ。いい言葉だ。本人は「桂宗家」と名乗っていたらしい。 今回のリニューアルに際して、三代目円馬に関するコーナーを真っ先に立ち上げたが、あの当時(明治から大正にかけて)文治という名は凄いものであった。元は上方の名であった桂文治は、三代目が江戸に下って以来、東西にその名を名乗る噺家が出てきた。六代目は東京のみの名であったが、上方の二代目桂文団治が、一代限りで東京へ返すという約束で、明治41年に七代目文治を襲名した(花月亭九里丸「寄席楽屋事典」および富士正晴「桂春団治」)。そして七代目は大正の中ごろに引退するのだが、この七代目文治の引退興行で大変なトラブルが起きた。その事件の詳細と、八代目以降の文治についてはまた稿を改める事にしよう。 |
立川談志が以前、雑誌の連載コラム「だんしんぼ」で、カレーライスの作り方をコラムに書いていて参考になった。特に参考になったのは、鍋の底に最後、少し残ったカレールーの処分の方法である。鍋の中にご飯を投入してかきませれば、それ即ち「カレーおじや」になるというのだ。 なるほど、気が付きそうでなかなか気が付かなかった方法である。これだと白飯が、鍋にこびりついたカレーを全て吸い取ってくれる。以来、私はこの「カレーおじや」を、カレーを食べ尽くした翌日に作って楽しんでいるのだが、この「ご飯とルーが混ぜ合わさったカレー」は、談志も書いているが、大阪・千日前の「自由軒」という食堂で出すカレーに似ている。 「自由軒」の名物カレーは、織田作之助の名作「夫婦善哉」で有名になったらしい。私も十数年前に、2回ほどこのカレーを食べた記憶があるのだが、味は殆ど記憶に残っていない。でも悪い印象は残っていないから、味自体は良かったのだろう。「自由軒」では、ご飯とルーが最初から程よく混ぜ合わされて、そして中央にくぼみを作り、そこに生卵が割り落とされて出てくる。客は卵にウスターソースをかけて、グチャグチャと卵を潰し、カレーご飯とあわせて食べるのだ。 生卵が入るとますます「おじや」色が強まるが、私が家で作るカレーおじやには、ウスターソースも卵も用いない。ただ混ぜて食べるだけだ。立派な一品料理として出てくる店のカレーではなく、さんざん(普通の)カレーを食べた後の残りを最後に処理する方法としてなのだから、そんなに工夫はこらさないのである。 何にせよ、このカレーおじや、美味いは美味いが少し味気ない。なぜなら「どこを食べても同じ味」だからである。普通のカレー、つまりルーとライスが別になっているカレーでも、両者を混ぜ合わせて食べるのだが、しかしそれでも、たまには「ルーだけ」「ご飯だけ」という部分をたまに食べて、味にアクセントを付ける事がある。しかし最初から混ぜ合わさっているカレーだと、どこを食べても同じ味だ。つまり、食事が単調になる。チャーハンでも量が多いと、たまに食べ飽きることがあるが、この混ぜカレーは飽きが来るタイミングが、チャーハンのそれより速い気がする。味が濃いせいだろうか。 同じようなことを考える人がいないかな、と思っていたら、食に関するエッセーの大家、漫画家の東海林さだおが書いていた(「東海林さだおのフルコース」東海林さだお、朝日文庫)。彼は大阪まで出かけ、自由軒の混ぜたカレーを食べに行ったようだが、やはりその動作の単調さが気になったようだ。ただ「単調といえば単調だが、勝負が早いといえば早い。」と、大阪独特のせっかちさにその理由を求めているようである。これはこれで納得できる。 ただ、あと一つ問題が残る。それはカレー食いにおける「問題」と「心配」が、この食べ方では発生しないという事だ。つまり、カレールーは無くなったのに、白いライスはまだ残ってしまうという「問題」、そしてそういう問題が発生するのではないか、という「心配」である。カレーとご飯の食べる配分を間違えてしまい、カレーだけ最初に食べてしまったので、残ったご飯をどうやって食べるか」という事態は、誰にでも発生しうる状況である。だからカレーを食べながら、両者を食べ進める配分を心配するあまり、怖くなってカレーが食べられなくなり、スプーンを持つ手を思わず置いてしまった、という人がいるかもしれない。 そんなの福神漬けか、あるいはラッキョウで食べてしまえば良いじゃないか、といわれるかも知れないが、事はそう簡単ではあるまい。そういう場合、えてして漬物も無くなっているのである。 ところがこの「ご飯残留問題」、混ぜ合わせたカレーでは最初から存在しない。ライスとルーは最初から程よく混ぜ合わさっているので、味のついてない白飯はどこにも存在しないからである。じゃあ混ぜてあるカレーの方が、そもそも優れているのではないか。そんな疑問も湧いてくる。 それは違う、と私は思う。なぜなら、その「心配」を胸に秘めながらカレーを食べる事も、カレーを食べる上で克服すべき事の一つなのだ。それを恐れていては、何時まで経ってもカレー道の達人にはなれまい。自慢ではないが、私は自宅でカレーを食べるときは、あえてカレールーより、白飯を少し多すぎるくらい盛り付けて、何時もこの問題が発生するよう意図的に操作している。そして大量の米粒を一粒残さず平らげることで、白飯残留問題を毎回、鮮やかにクリアしているのだ。カレーを食べるなら、これくらいの苦行を自らに課するくらいの心構えがないと困る。そしてこの「問題」をクリアしたご褒美として、初めてカレーおじやを食べることができるのだ。最初から混ぜ合わせてあっては「問題」が発生しないので、カレー道の修行には全く不向きなのである。 でもそれは単に「大盛りカレー」が好きなだけではないのか、という疑問を持った人もいるかもしれないが、確かにまぁ、そういう見方もできるかもしれないな。 |
|