テレビ朝日というテレビ局は、昔はNETと言った。子供の頃「欽ちゃんのどこまでやるの?」というテレビ番組を見ていたのだが、この番組の中で夫婦の役を演じていた萩本欽一と真屋順子が、何か判らないことがあると「そうだ、テレビ朝日に聞いてみよう」と電話をしていた。だが放送開始当時は「NETに電話しよう」であった。 このNETというのは、実は日本教育テレビの略称であったらしい。NHKにも教育テレビと言うのはあるが、民間放送で教育番組中心の局を立ち上げようという構想だったのに違いない。だが途中から方針転換し、1977年にテレビ朝日という呼称に変わる。 そしてNET時代の1975年に起きた「大事件」が、東京・大阪のテレビ局ネットワークの変更である。現在のネットワーク関係は TBS(東京放送)→MBS(毎日放送) であるが、これが1974年までは TBS→ABC であった。それが何故変更されたかの詳しい経緯は、こちらのサイト CLUB dx station さんの「気になるコンテンツ」に書かれているのでご参照いただきたい。1975年春をもって、毎日系と朝日系の放送局がネットワーク関係を持つという「腸捻転」は解消されたのである。 その結果、東京のNETで制作されていた番組はMBSからABCでの放送に変更され、ABCで作られていた番組がTBSからNETに変更される事になった。アントニオ猪木の新日本プロレスが出場する「ワールドプロレスリング」は、私が子供の頃はMBSで放映されていたのをなんとなく覚えている。また毎日放送が制作していた「仮面ライダー」シリーズを失ったNETが「ゴレンジャー」を放送し始めたらしい。 参考サイト 子供心に、このネットワークの変更による番組体系の変更は違和感があったのだから、やはりテレビ界にとって「大事件」であったことは間違いあるまい。ただラジオ局では従来の関係は残っていた。今でもそういう事があるかどうかは分からないが、たとえば甲子園での阪神−巨人戦をラジオで放送するとき、東京ではTBSラジオでABCラジオの実況を放送し、巨人側レポーターもTBSアナウンサーが担当していた。これは75年のネット変更を知っている世代ならなんとなく事情が飲み込めるが、若い世代の人で事情を知らないと不思議に感じたのではないだろうか。 (文中一部敬称略) |
営団地下鉄銀座線、なんとも思い出深い路線である。 銀座線と言いながら、この路線は非常にバラエティに富んだ路線だということが言えるだろう。なんと言っても渋谷⇔浅草間を運行しているのである。かつての東京を代表する繁華街であった浅草から、現代の東京を代表する繁華街である渋谷を結んでいるのだ。ざっと主要駅を挙げておくと 浅草→上野→神田→日本橋→銀座→赤坂見附→表参道→渋谷 となる。しかしその間にも、様々な個性溢れる駅がたくさんある。たとえば、浅草と上野の間にある稲荷町駅は「稲荷町の師匠」の稲荷町だ。稲荷町の師匠、と言われてもピンとこないだろうが、林家彦六といえば、40歳前後の方ならお分かりあろう。たとえ本人の高座は見たことが無くても、「バガヤロ〜、冗談じゃないヨゥ」と震えた声で話す老人の物真似は聞いたことがあるはずだ。あの彦六は、稲荷町の長屋に住んでいたのでこう呼ばれたのである。 スポーツファンなら、外苑前駅がおなじみだと思う。秩父宮ラグビー場、神宮球場、そして国立競技場…野球、サッカーそしてラグビーと、思い出のスポーツ試合の数々は、外苑前駅から向かったこれらのスタジアムと共にある。また私は殆ど利用した事が無いのだが、溜池山王駅もこの銀座線の駅のひとつだ。 個人的には虎ノ門駅が思い出深い。大学卒業後就職した会社がこの虎ノ門にあったからである。移転した為、実際に虎ノ門にいたのは2年近くなのだが、サラリーマンの街・新橋にも近いし、また赤坂や六本木にも近いので、夜の活動は大変活発だった。 しかし、それは今回のテーマではない。私が東京に出てきて、初めて銀座線に乗った時の驚きである。何しろこの銀座線は当時、駅(確か渋谷、表参道辺り)に近づいてホームに入る直前に、車内の電気が一瞬ぱっと消えたのだ。この停電に出くわした時、お上りさんだった18歳の私は「しまった!事故だッ」と軽いパニックに陥った。しかし回りの客はなぜか心得た感じで、表情を変えることも無く座りつづけていた。確かに、やがて電気はすぐに復旧し何事も無かったかの如く停車した。 この銀座線には当時、レールの横に電気を通す別の線があってそこから電力を取っていたのだが、その継ぎ目に入った瞬間に電力が取れなくなるので、瞬断が発生していたらしい。今は新型車両になってそういう事も無くなっているが、だから停電事故でもなんでも無かったのだ。丸の内線もかつてはこういう形式だったそうだが、私は丸の内線では「停電」を経験していない。 銀座線は古い路線だからか、車体の幅が他の後発路線よりも狭かったと思う。その分、他の乗客との距離感が近かった。混んでいる時はしんどい思いをするが、たとえ車両が新しくなってもクラシカルな感じがするこの路線は、やはり最も東京の地下鉄らしい路線のひとつだと思う。 |
マンハッタンに戻ってきてから、何時も楽しみにしているのが週末の散歩である。ニューヨークは、ウィークデーとウィークエンドではその表情を変える。どこか気ぜわしい平日に比べ、土日のニューヨーカー達はつかの間の休日をゆっくりと楽しんでいるのだ。 私は広義の「アッパー・イーストサイド」とよばれる地域に住んでいる。アッパーイーストは、よく「高級住宅地」という言い方をされる。確かにその通りなのだが、やはりマンハッタンだけあって一軒家は殆ど見かけない。大半はアパートメント形式のビルである。そして誰もが認める高級アパートは、やはり5番街からパーク・アベニュー沿いのエリアであろう。
このアッパー・イーストサイドを横に、セントラル・パークに向かって横切り、セントラル・パークまで達したらそのまま公園に行ってのんびりするか、五番街の美術館に行くか、それともマディソン・アベニューでのショッピングを楽しむか、というのが主なコースという事になる。冬場はやはりセントラル・パークに人は少ないが、暖かくなってくるとすぐに人は戻ってくる。目に付くのは犬を連れ歩いている人々だ。ニューヨークの住人は、つくづく犬が好きだと思う。そういう私たちも犬が好きなのだが、残念だがうちのアパートは犬を飼う事が禁止されている。 美術館はメトロポリタン美術館、グッゲンハイム美術館、そしてホイットニー美術館などがある。今週はホイットニーに行ったのだが改装中ということで、残念ながら5階の展示しかやっていなかった。ただ美術館も週末は観光客が多いので混みあう。展示が少ないため、人でも減っていてちょうど良い感じだった。 それとアッパーイーストを横切ると、面白いことに気付く。三番街からレキシントンくらいまではニューヨークらしく、様々な人種や国の人々が歩いているのだが、これがマディソンになると、すっかり白人の裕福な人々の姿が目立つようになるのだ。なんだかんだ言って、その辺の現実ははっきりとしている。そしてアッパーイーストを超え「ハーレム」と呼ばれるエリアに入っていくと、街の姿も人々もまたまるで違う街へと変貌するのである。 |
「ロード・オブ・ザ・リング」が、ことしのアカデミー賞11部門を受賞した。この映画、私は見ていないのだが、大変懐かしい響きがある。原作の「指輪物語」は、小学生の頃から知っていたからだ。 12歳の頃、日本に一大SFブームがやって来た。スピルバーグの名作「未知との遭遇」と、そしてジョージ・ルーカスが作り上げた、今も続く一大SF抒情詩「スター・ウォーズ」が日本で公開されたからである。とくに「スター・ウォーズ」が公開された1978年の夏は、日本中をスター・ウォーズ・フィーバー(思えば”フィーバー”という言葉を使うようになったのもこの頃からだ)が席巻した。もともとSF映画が好きだったが、これでもう完全にイカレてしまったのである。 関西テレビでは「プロ野球ニュース」の放送が終了後、午後11時50分頃から「宇宙大作戦」を放送していた。いわゆるオリジナルのスター・トレックである。エピソードの面白さ、魅力ある登場人物にも惹かれ、深夜にもかかわらず眠い目をこすりながら毎晩のように見ていた。こんなSF少年だった私を刺激してくれたのが、当時創刊されたばかりだった「日本版スターログ」という月刊誌だった。おりからのSFブームに乗って、この雑誌はアメリカのさまざまなSFとそれに付随する文化を紹介してくれた。またSFグッズをアメリカから直輸入し、それを通信販売していたがそのカタログ欄も魅力的だった。「スター・ウォーズ」の8ミリ(あるいは16ミリだったか)版フィルムも発売していた。まだVHSのソフトが普及する前だったのだろう。欲しくて仕方が無かったが、1本1万円くらいするので、当時の私には買えるはずも無かった。 そして「指輪物語」は、この「スターログ」に紹介されていたのだ。当時アニメになっていたんだと思う。なぜ「指輪物語」がSF雑誌に…と訝る向きもあるかと思うが、当時はホラーやファンタジーも、広義のSFである、という風潮が強かったと思う。その方がよく売れたんではないだろうか。今は逆に、SF的要素のある文学作品でもSFと銘打たないケースが増えた、と椎名誠「本の雑誌血風録」(朝日文庫)に書いてありなるほど、と思わされた。しかし私が好きなのはファンタジーやホラーではなく、正統派SFの元祖とも言える「スペース・オペラ」であった。宇宙冒険活劇とでも呼ぶのであろうか。「スペ・オペ」などと日本では略していたが、代表作である「キャプテン・フューチャー」はNHKでアニメ化されたし、「スターウルフ」は日テレで実写化された。もう怪獣特撮ものの人気は過ぎ去っていたし私もそういう作品から卒業してはいたが、代わりにSF特撮モノに熱中していたのである。中学生である私にとって「文庫」といえば、それはハヤカワSF文庫のことであった。 またドイツには、世界最長のSF小説「ペリー・ローダン」シリーズもある。こちらは1961年にドイツで連載開始以来なんといまだに継続中だ。日本でもハヤカワ文庫から発行されているが300巻を越えるという。しかしそれでも翻訳は全然本国の発刊ペースに追いつかないようだ。これは読んだ事がない。はまらなくて良かったという気もする。 当時、スターログを発行していたのはツルモトルームという出版社だったが、ラフォーレ原宿と大阪・梅田の阪急ファイブにSFショップをオープンした。初めて阪急ファイブの大阪店を訪れた時の興奮は、今も忘れる事が出来ない。雑誌で見たSFグッズが店内に所狭しと並べられていたからである。そんな感じで激しく燃え上がった私のSF熱だが、これもほぼ中学時代限定という形で醒めてしまった。 アメリカには今も本家"STARLOG"が存在するし、日本版も90年代の終わりに復活したと聞く。だがどちらも手にとる事は殆ど無い。私にとってはSFなんであって、アメリカ風にSciFi(サイファイ)なんて言われても、イマイチぴんと来ないのだ。あんなに好きだった「スター・トレック」にしても、「ネクスト・ジェネレーション」ですらロクに見ていない。でもだからこそ、あの70年代後半から80年代初頭にかけての、極私的「SF時代」がとても懐かしく、また熱狂的なファンではなくなったにしても、SFに対する支持の気持ちはいささかも失われていないのである。 追記:キャプテン・フューチャーに関してはファンの活動が盛んなようで、こちらのサイトが詳しい。復刊が決定したとの事でおめでとうございます。こういうサイトを見つけると、こちらまで嬉しくなります。 (文中敬称略) |
引き続き、アタック25と児玉清の話を続けたいと思う。昨日は名人芸と書いた児玉の司会ぶりだが、一方では「いやみ」と形容される事も多い。それは回答者がどう考えてもおかしなパネルの取り方をした時などに、如何なく発揮されるという。詳しくは「速報!アタック25への道」というサイトにある「児玉清語録」を参照していただきたいと思う。 でも実際のところ、回答者がパネルを取ってその色の変わり様を瞬時に説明しているのだから、一種のスポーツ実況アナウンサーにも似た技術を要求されると言っても良い。やはりこの番組の司会は、もう児玉以外に考えられない。
アタックチャンスで緑の方正解、9番に飛び込んで14番が緑に変わった。 児玉清は他にも多彩な趣味の持ち主として知られている。そのひとつが読書だ。こちらのほうはもう仕事の一つといっても良い。NHKの衛星放送では「週刊ブックレビュー」という番組の司会者を務めている。公式サイト そして長年の読書体験、本を読むことの楽しさを綴った好エッセー「寝ても覚めても本の虫」(新潮社)を出している。児玉は好きだった翻訳物の小説を読んでいるうち、もう自分の好きな作家の本が無くなってしまった為、今では英語やドイツ語の原書でどんどん本を読んでいるという。こういう読書の軌跡は、本好きなら共感できる部分も多いだろう。 さらに最近は別の趣味というか、無名時代は生活の足しにしていたという切り絵についての本「たったひとつの贈りもの―わたしの切り絵のつくりかた」(朝日出版社)も出した。こちらは要らなくなった洋雑誌などを用いて作るらしく、なかなか楽しそうだ。こうやって見ていくと、児玉清という人はなかなかタダモノではない事に気付かされた。高倉健や緒方拳、仲代達矢などと言った俳優達に比べると映画・テレビドラマでの代表作が少ないと思うが、そんな事は関係が無い。高倉健は「アタックチャンス!」とかやらないだろうし、緒方拳も切り絵はやらないのでは無いだろうか。だから私は彼のことを知れば知るほど、自分が「児玉ニア(KODAMANIA)」になっていく事を自覚しているのである。 (文中敬称略) |
|
もっと過去のコラム
|