回想・私的お笑い史 |
|
|
|
1.アホになれ 幼い頃の私はおとなしくて気が弱く、喧嘩してもほぼ全敗の弱虫であった。ある時、珍しく喧嘩相手が先に泣いたことがあった。私の勝ちだ、そう思った瞬間気が緩み、安心した私の目からも涙がほとばしり出た。つまり2人して泣いてしまい、これで喧嘩は引き分けとなった。それくらい、子供だった私には喧嘩に自信が無かったのである。 そんな自分にとって、当時関西テレビで放送されていた「爆笑寄席」というテレビ番組は、いわば笑いの教科書とでも呼ぶべき存在であった。「寄席」と言ってもその内容は、いわゆる漫才や落語を見せるものではなく、吉本興業所属の芸人による30分のコメディ番組であった。そしてその番組のリーダー格である、「コメディNo.1」の坂田利夫は、当時私にとって最大のヒーローであった。 坂田利夫。通称、アホの坂田。 これほど魅力的なニックネームが、他にあるだろうか。「オモロイ」とは何か、それはつまり「アホ」である、ということだ。子供にとって面白い、笑えると言うのは、つまり人より一段低いことを言ったり、行動として表現することであった。坂田は、その頂点とも言える存在であった。 「♪ア、ア、アホの坂田」当時流行ったこのフレーズは、クラスにいる「坂田」君がいじめられる、として糾弾され、学校によっては教室での使用を禁止されたところもあるという。つまりは「禁じ手」だったのだ。逆にいえば、それくらい「アホの坂田」は、子供にとってインパクトの強い存在だった。
|
|
2.「ひと目会ったその日から」 「ごた〜いめ〜ん!」 などの人気フレーズを生み出した番組「パンチDEデート」に出てくる司会者の一人である西川きよしが、漫才師であるという事を当時の私は知らなかった。相方の横山やすしは当時、例の暴行事件※4でテレビでの活動を自粛していたはずである。だからこの番組のパートナーである三枝が、きよしの相方だと勘違いしていたと思う。 そんなある日「爆笑寄席」を見ていると、見知らぬ男が現れた。細身の体、黒ブチの、度のきつそうなめがね。ちょっとはにかんだ表情で手を振って現れたその男に、母は「あ、”やすし”やな」とつぶやいた。 私がはじめて横山やすしを見た瞬間であった。そして横山やすしは、きよしの相棒であるということを認識したのである。何時のことか正確にはわからない。しかしこれ以降、「プロポーズ大作戦」という、これまた公開番組がやすし・きよし、そして若手落語家の桂きん枝出演によりヒット。「神の御前にて身を委ねたる、○○殿(依頼者)の願いを叶えたまえ〜」と祈祷する、やすしは私にとっても馴染み深い存在となっていった。 当時の私は、「クラス一オモロイ奴」という評価を得ているという訳ではなかった。しかし「イチビリ」ではあった。イチビリとは、調子に乗ってふざける、羽目をはずす奴のことである。通知表に「落ち着きが無い」と書かれるタイプの人間ではあったと思う。 ただし、ひとつだけ言われたくないことがあった。それは「吉本に行け!」であった。これは少なくともその当時、侮辱の言葉であった。「吉本」には、頭が悪い成績も悪い、そうアホの坂田のような奴が行くべきであり、俺はそんなところには絶対行きたくない、そういう意味での「アホ」ではないぞ、という、妙なプライドを持っていたのである。 …今の吉本は、どうだか知らない。きっと若者の憧れなのだろう。 |
|
3.凶暴な男
「吉本=セリーグ 松竹=パリーグ」 何時からこういう関係が成り立っていったのか、私にはわからない。おそらくは笑福亭仁鶴や、或いはやす・きよ、三枝などが全国区の人気者になっていった昭和40年代半ばからではないかと推察されるのだが、子供心にも松竹芸能所属の芸人たちは古臭くて、若い感性が感じられない人ばかりで面白くなく「マイナー」と言うのがピッタリな印象を抱いていたと思う。何時から、「吉本」や「松竹」というプロダクションごとに演芸番組が作られているという事を認識していたか定かではないが、そんなこと知らなくても、松竹の芸人が出てくる番組は、画面から陰鬱な雰囲気が伝わってきて見るのが嫌だった。
桂春之輔※7という落語家がいて、当時(昭和50年ごろ)彼が司会をしている、素人の登竜門的番組が朝日放送で放映されていた。そこで春之輔は毎週、番組の冒頭で「…何週か勝ち抜きますと、松竹芸能所属としてデビューできます」みたいな事を言っていた。だが私は「松竹に所属なんて、そんなもん嬉しくもなんとも無いやないか」と子供心に思っていた。 枝雀はペラペラの紙製みたいな黒いダテ眼鏡をかけて、いかにもいかがわしい雰囲気をぷんぷんさせていたと記憶している。米朝一門は、当時は松竹に所属していたのであろうか?それはともかく、当時はまだ上方を代表する落語家ではなかったはずだ。後年に独特のセンスから繰り出されるギャグや、華やかさも当時は感じられなかった。 男の名前は、笑福亭鶴瓶といった。巨体にアフロヘア、眼鏡の奥には狂気を感じさせる鋭い眼光が光っていた。そして何が厄介かと言うと、この鶴瓶が何かと司会の春蝶に食ってかかるのだ。ドスの利いた声で、無礼な口調で恫喝したかと思えば、いきなり春蝶に飛びげりを食らわしたりするのだ。それもただの飛びげりではない。舞台の端にいったん下がり、助走をつけた上で春蝶にキックを食らわせるのである。細身の春蝶は、ひとたまりも無く吹っ飛んだ。 鶴瓶の粗野かつ凶暴な振る舞いや発言は、私にとっては到底許し難いものであった。そして恐怖の対象であった。お笑いの人間に対して恐怖心を抱いたのは、この鶴瓶が最初であった。 この鶴瓶という男、よく知られているように、東京のテレビ局からは長年干されつづけていた。デビュー当時、東京のテレビ番組に出演していた鶴瓶は、ディレクターの押柄な態度に腹を立て、生放送の最中に自らの局部(あるいは肛門)をさらけ出したと言う。この事件がきっかけで、鶴瓶が全国ネットの電波に乗ることは殆ど無くなった。後年、彼の代表作となった「突然ガバチョ!」も基本的にはローカル番組であったし、NHK教育テレビで月に一度担当していた「YOU」の大阪制作版(東京は糸井重里が司会)はもちろん全国ネットだったが、基本的に鶴瓶は、東京では知名度の無い人であったようだ。またそれが逆に、鶴瓶の大阪での人気を高めて行ったと思う。 今では鶴瓶もすっかり化けの皮がはがれてしまい「計算高い」「温和な表情の奥に潜む冷徹な視線」などといわれるようになったが、それはアル意味当然の話であるともいえる。私にとって彼の出発点はあの凶暴な、まるでタイガー・ジェットシンのような凶暴な鶴瓶であり、決して「覚えてるよ」のええひと鶴瓶ではなかった。もう50歳を超えた鶴瓶、東京ではすっかり「ただのタレント」としての顔が定着してしまった。ここらでまた暴力的な、仲間の芸人をドつきたおすようなイメージに再転向してみたら面白いのだが…まぁ無理だろうな。(続く)
|
|
※1 「やんぐオー!オー!」かもしれない。笑福亭仁鶴も出演していた様だが、私の記憶にはない。桂三枝、そして毎日放送の斉藤努アナウンサーの司会、そして「ザ・パンダ」などが有名。提供は日清食品で、「カップヌードル」を知ったのもこの番組のCMがきっかけだったと思う。後に司会は川村龍一に交代した。 |
|
※2ミヤコ蝶々が司会を勤めていた番組、これも関西得意の視聴者参加番組であろう。元々は漫才の相方だった南都雄二も(当然だろうが)出ていたようだ。私は生前の南都雄二が全く記憶に無いのだが、蝶々さんが彼の死後、この番組で雄二氏の思い出を語っていたのだけ記憶に残っている。また番組中のCMにEH.エリックが出てきて、最後に耳を動かしていたような気がするのだが、なんともうろ覚えだ。 ※3若井はんじ・けんじ司会のクイズ番組。日曜日のお昼に放送されていた。回答者はすべり台のようなモノに乗ってクイズに答える。相手が正解するとこちらの階段は傾斜がきつくなり、最後には我慢しきれ無くなって下に落ちるとゲームオーバーとなる。この番組は果たして全国ネットだったのであろうか?兄弟漫才のはんじ・けんじは、関西以外ではどれくらい知名度のある漫才師だったのであろう。 当時はクイズ番組の全盛期でもあった。TBSではお昼の「ベルトクイズQ&Q」フジテレビでは「ズバリ!あてましょう」「クイズ・グランプリ」そしてNETではあの田宮二郎司会「クイズ・タイムショック」。もちろん大御所的存在の「アップダウンクイズ」もある。 ※4 1970年暮れにタクシー運転手を暴行し、以後のタレント活動を自粛。それ以後「やすし=暴力」というのが売り物と言うか、漫才のネタになっていく。 ※5堀江誠二「吉本興業の研究」(朝日文庫)の中に、この「早慶戦」が収められている。同書によると、エンタツ・アチャコは東京出演の際、柳家金語楼から早慶戦のチケットを貰い観戦したが、この時有名な「水原リンゴ事件」が発生したのだという。その熱狂振りに感銘を受け「早慶戦」というネタが生まれるのである。 ※6「笑わせる」はサディスティックで「笑われる」は、マゾヒスティックな快感を伴う。一般的には「笑われる」の方が上位に来ると思われるが、本当にそうだろうか。 ※7三代目桂春団治門下。どちらかと言えば2枚目タイプの外見なのだが、去年(2003年)に行われた「平成紅梅亭特選落語会」の大喜利で、久しぶりにこの人を見た。ボケぶりが際立っており、これはこれで面白い芸人なのだという事を再認識させられた。 |
|
|
|
このコーナーは以前、当サイトの掲示板に書き込んだ「私的お笑い史」を再構成、加筆訂正したものです。事実誤認などがある場合はお知らせいただければ幸いです。 |
|
|
|
|