黒沢明と並ぶ日本映画の巨匠、小津安二郎監督の遺作となったのが本作品。そして私の最も好きな小津作品でもある。この映画は比較的頻繁にテレビで放映されているので、ご覧になった方も多いと思う。私も本作品のビデオを持っていますが、これは数年前日本テレビで深夜放映したものを録画したものです。だからくオリジナルより短いかもしれません。そしてその後手違いのため重ね録りしてしまい、ラストシーンが消えてしまっています。それでもたまに取り出しては見ています。
小津安二郎の映画を一度でもご覧になった方なら、あの独特の映像や台詞回しが印象に残っていることと思う。各作品を通じてそのスタイルは貫かれているが、本作品でも同じである。最後の最後まで、小津は自分の様式美を押し通してこの世を去っていったと言うべきであろう。最も小津自身は、この映画を遺作とは考えていなかったらしく(まぁそれはそうだろう)次回作の構想も練っていたそうだが、今見ればこの作品はいかにも遺作らしい雰囲気をかもしだしている。
小津作品のストーリー上の特徴と言えば、なんだろう。「特に何も起きないこと」とでも言うべきでしょうか。基本的には家族の話であり、殺人とか、事件とか、殺陣とか派手なアクションシーン、そういうものは彼の作品には出てきません。したがって黒澤映画とはかなり異なります。父(たいていは笠智衆)がいて、娘がいて(本作品では岩下志麻)その娘が嫁に行く、というどこにでもある話を2時間余かけて描き出していく。この作品も、一言で言えばそれだけの話なんだが、それがとてつもなく面白い作品になっている。これぞ小津の真骨頂であり、彼の映画監督としての実力ではないだろうか。ユーモアにあふれているが、最後は物悲しいこの作品を私なりに振り返ってみたいと思います。
笠はある企業に勤める初老の男。妻を亡くし、長男(佐田啓二)長女(岩下)次男(三上真一郎)を育て上げた。長男は結婚し(岡田まり子)別に暮らしている。ある日会社に学生時代の友人(中村伸郎)が訪れ、岩下の縁談を持ちかける。岩下はこの中村の会社に勤めているのだ。この後笠と中村は出かけるのだが、ここのやり取りがなかなか面白い。
笠が今夜、旧友も交えて一杯やろうと言うと中村は断る。今夜は野球を見に行くと言うのだ。川崎球場の大洋−阪神戦。「ダブルヘッダー、今日がヤマ場なんだ」と嬉しそう。相当の野球ファンと見た。この映画が作られたのは昭和37年。この頃、阪神も大洋もかなり強いチームであった。事実この年は阪神がリーグ優勝している。プロ野球ファンならこの試合は見たかったはずだが、笠は「まぁ良いじゃないか」と強引に誘う。「いやダメだ」と頑固に断る中村。中村は果たしてナイターに行けたのか?
シーンは変わって川崎球場、場内アナウンス「4回の裏大洋の攻撃は、四番サード桑田」。中村が笠を誘って、野球見物にやって来たのか?しかし彼らは次のシーンで、小料理屋で飲みながらテレビの実況中継を小耳に挟んでいる。結局飲みにつれて来られたのだ。中村は「おっ、入ったかな」「どっち勝ってる?」などと未練たっぷり。もちろんストーリーには直接関係無いが、こういう形で古いプロ野球のシーンが挿入されていて、実に興味深い。
長男の佐田は妻の岡田と二人暮らし。結構イイ男なのにぼろくそに言われる。「二階の奥さんが、今度出来た子をあんたと同じ名前にするって言うからよしなさいって言ったの。大人になってあんたみたいになったら困るじゃない」と毒づいた後で、フンと笑う岡田。実に小憎らしい。戦後の新世代、女性が強くなった象徴なのか。中村は会社で、岩下に結婚を勧めるが「いま私が行くと家が困るんです」と言う。
シーンは変わってクラス会。笠や中村達が、かつての先生”ひょうたん”(東野英治郎)を囲んで旧交を温めている。皆それぞれ立派な人物になっているが、ひょうたんは娘と二人暮らしで、どうも淋しい生活をしているらしい。笠と中村は、しこたま飲んでご機嫌の東野を家まで送っていくが、家はラーメン屋。娘(杉村春子)が出てきて泥酔した父の世話をするが、笠たちが帰った後泣き出してしまうのだった。
後日、クラス会の面々で東野ひょうたんにお金を贈ることになり、笠が代表して届けにいった。そこで笠は、海軍時代の部下・加東大介にばったり出くわす。笠が駆逐艦「あさかぜ」艦長で加東はその一等兵曹、現在は修理屋を営んでいる。昔を懐かしむ加東に誘われ、笠はバーへ。軍艦マーチをかけながら二人で飲んでいる。
加東「ねぇ艦長、どうして日本負けたんですかね?」
笠「うーん、ねぇ」
加東「でも艦長、これで日本が勝ってたらどうですかね?今頃あなたも私もニューヨークですよ」
笠「けど、負けてよかったじゃないか」
加東「そうですかね?…そうかもしれねえなぁ。バカな野郎がエバらなくなっただけでもね」
この辺の会話は面白い。境遇こそ違え、敗戦を体験し、戦後苦労をして現在の地位を築いた男達が、過ぎ去った日々を振り返りながら酒を飲む。そして「戦争に負けてよかったじゃないか」と言う。そこには戦後生まれの我々には窺い知れない思いが(おそらく監督自身の思いも)こめられているのかも知れない。そして二人はまた軍艦マーチをかけ、お互い敬礼をする。この映画でも印象的なシーンだ。
佐田夫婦は父親から借金をして冷蔵庫を買うことにする。冷蔵庫に掃除機、一般家庭にこういった電化製品がどんどん入ってきた時期なのか。しかし佐田は、ついでに後輩(吉田輝雄)ルートでマクレガーのゴルフクラブも買うと言う。岡田は「お金どこから出すの、ダメよ」と言うが佐田は「良いんだよ、余計に借りたから」と豪快に言ってのけ夫婦喧嘩に。またしても岡田にボロクソにののしられる佐田。いったんは諦めるが、試し打ちして見てますます欲しくなる。吉田は言葉巧みに売りつける。佐田はどうしてもクラブが買えないので、ゴルフにも行かず家でムクれているが岡田は「早く何でも買える身分になればイイじゃない」と得意の罵倒。それでも佐田がふてくされ無言なので、「ノーコメントか」と一言…この頃から「ノーコメント」という言葉はあったのだ。
そこに岩下、続いて吉田がやって来る。吉田は間が悪いことに?例のクラブを持参している。吉田は月賦でも良いから買いませんかと言う。エキサイトする岡田「ダメダメ、もって帰ってよ」と一喝。しかしその後で、岡田が吉田に2千円をわたす。月賦の一回分だ。「この辺で買っておかないとうるさいから」そしたら最初から買ってやれよ。ニッコリする佐田。男とは淋しい生き物である。吉田と岩下が揃って佐田邸を後にする。これが複線。
東野が先日のお礼を言いに笠の会社までやって来たので、笠と中村の三人でまた飲みに行く。「結局人生は独りじゃ…一人ぼっちですわ…私は失敗しました、つい娘を便利に使ってしまって」と泥酔しながら独白するひょうたん。「お前も気をつけないとこうなるぞ」と、岩下を嫁にやるよう笠を諭す中村。笠はまだ娘を嫁にやりたくは無かったが、少し身につまされるものがあり考えを変えだす。しかしいきなり岩下に「お前お嫁に行かないか」等と言うため岩下も驚いて引いてしまう。私今のままで良いの、という岩下。
ある日笠が佐田宅に。佐田を連れ出し、以前加東と出かけたバーへ。笠は縁談の話を相談する。いい話なのだが、笠のリサーチによるとどうも岩下は吉田が好きらしいのだ。佐田も吉田ならいいと薦める。それなら一度吉田の気持ちを聞いてみてくれ、と頼む笠。
佐田は吉田をとんかつ屋に連れ出す。佐田は岩下の名を出さず「きみねぇ、結婚するつもりないか、もらわないか」と持ちかけるが、吉田にはもう将来を誓った女性がいた。最近決まったらしいのだ。佐田に縁談は岩下が相手だったと聞くと吉田は「だったらもっと早いこと言って欲しかったな」と悔しがる。岩下に脈が無さそうなので諦めたと言うのだ。悔しがる吉田、しかしすぐ立ち直り驚愕の一言を発する。
「ねぇ、とんかつもう一つ良いですか?」
驚きの一語だ。とんかつをお代わりするという。とんかつ屋でご飯をお変わりと言うのはあるが、とんかつを2枚も食べると言うのは聞いたことが無い。そんなに油ものを食べたら体に良くないよと余計な心配をしてしまう。
事の顛末を岩下に説明する笠と佐田。その時は気丈に振舞った岩下だが、自分の部屋に戻って涙する。しかし吉田のことは諦め、父の持ってきた見合いをする決意する。
この後も映画はしばらく続くが、話としてはこれでほぼお終いだ。見合いはうまく進んだらしく、岩下は嫁に行く。花嫁姿が美しい。岩下は笠にお決まりの挨拶しようとするが、笠は「ああわかってる、しっかりおやり。幸せにナ」と励ます。岡崎の方へ嫁ぐのだ。結婚式のシーンは無い。結婚式後いつもの中村達と飲む笠は早々に切り上げる。中村は「娘を嫁にやった晩なんて嫌なもんだよ」と察してやる。
例のバーへ向かう礼服姿の笠。ママ(岸田今日子)に「お葬式ですか」と言われ「ん、まぁそんなもんだよ」と答える笠。娘の結婚式が「お葬式みたいなもの」。笠の淋しさをあらわす素晴らしい台詞だ。軍艦マーチを聞きながらグラスを傾ける笠のさびしげな表情。「人生は結局独りですわ」という、ひょうたんの言葉が胸に響いているのであろうか。
そしてこの後本作と、小津安二郎の映画監督としての最後のシーンが訪れる。
…とこのように、話としてはなんて事の無いストーリーであるが、これぞ前述の様に小津作品の基本である。その一見平凡な話を傑作たらしめる監督の手腕と俳優陣の名演を是非ご覧頂きたい。もちろん「東京物語」など他の小津作品も併せてご覧いただくと更に楽しめるであろう。中村伸郎はちょっとキザな感じの中年紳士。私の知っていた晩年の中村は白髪、白髭の老紳士でこの頃の面影が無く、私は最初二人が同一人物だと気付かなかった。佐田啓二はご存知かと思うが、中井貴一の父。顔は似ていないと思うが、パッと見や立ち居振舞いが何となく似ている気がする。加東大介は確か(失礼)長門裕之、津川雅彦兄弟のオジさんにあたる人。黒澤作品にも顔を出している。目元が長門兄弟に似ている。今や「極道の妻」シリーズで知られる岩下だがこの頃は若いお嬢さん、といった感じだ。
なぜ私はこの作品がすきなのだろう。戦後間もない風景が沢山登場する小津作品の数々は、私には基本的に馴染みの無い風景であるが、この作品にはほんのかすかに「高度成長」の日本の匂いがしている。電化製品しかり、ゴルフ然り、強い妻然り。昭和40年代後半に物心ついた私にとっては、こういった風景こそ自分の「原体験」でもあり、ひょっとしたらそういった部分にそこはかとない懐かしさを感じているのかもしれない。
しかし飲み食いのシーンが多いなぁ。料理屋、とんかつ屋、バーなどなど。日本のホームドラマには、やはり欠かせない物なのか。 |