幕末から明治にかけて活躍し『三十石』を売り物とした、初代桂文枝の一門には「四天王」(文之助、文都、文三、文団治)と呼ばれる優秀な弟子達がいた。
明治7年に文枝が死去すると、そのうち桂文都と桂文三の間に後継者争いが起こり、結果として文三が二代目文枝を襲名することになった。
敗れた文都は桂の名を捨て「月亭文都」を名乗り、二代目文枝に対抗。二代目文団治(初代は明治19年にコレラで死去)、三代目笑福亭松鶴、笑福亭福松、そして曽呂利新左衛門と名を改めた文之助らと、明治26年に「浪花三友派」を結成し、文枝(後に文左衛門)率いる「桂派」と対抗した。南地紅梅亭を本拠地とした。
地味な渋い芸風の本格派が多かった桂派に対し、派手で華やかな高座さが特色であったといわれている。また文都や福松なきあと三友派の実権を握った文団治は、東京から桂文治の名跡を一代限りの約束で取り戻し、七代目を襲名している。
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